『叫』

監督:黒沢清
この監督の映画は映画館で見たほうが面白いんだろうなと思った。
私は、黒沢監督作品は今まで役所さんが出ているものしか見たことなくて(というのは「ユリイカ」で役所さんブームが来た時に出演作を見まくったからで)、前回の「LOFT*1でようやく初めて黒沢清という監督のことを意識しながら劇場で見たのだけど、あれを見たときにあの作品の特徴だと思ったものは、ほとんどこの監督の特徴であったのかもしれない、と思って、今までのも見返したくなった。
そして、それは例えば、ほとんどの画面の中には、2つの世界があるということだ。演技する主人公の世界/視線と、主人公の背景、画面の端に映る鏡、窓、カーテンの隙間を見る私の世界/視線。一人称で描かれる物語というもののほとんどは、主人公の視線を借りることと似ているけれど、この監督の映す映像の中で、主人公と私は重ならない。それが、物語としてではなく、この現実の世界の続きとして映画があるということでもあるように感じる。
そして、常に主人公の視線が見つける何かを探す、客観としての視線の想像力というものが、恐怖やおかしみを生むのだ、と思った。
だから、やはり大きなスクリーンで見た方がいい。見れるだけ見よう、と思う。監督の言葉とか読んだことないけど、そう思わせる魅力は確実にあって、その魅力の質が、私の中では新鮮。だって恐い映画苦手だったのにな。とりあえず『叫』はこわくなかったけど。

映画の中に「壊したり作ったり、大変ね」という台詞があった。そして映画は全編にわたって、東京湾岸を*2陰鬱なものとして映し出している。
しかし、黒沢監督の作品には、単純な解釈をすることを保留したくなる雰囲気がある。私が見ている物語とは別の、何かがあるんじゃないかと思ってしまう。
だから「壊したり作ったり、大変ね」という台詞を昨日考えてたこと(id:ichinics:20070309:p2)とつい重ねてしまうことで、イメージが鮮明になり、もしかしたらそれが今の空気なのか、この映画のテーマなのか、と勢いで理解してしまいたくなったのをつい堪えて、結局はメタファーとかあまり意識せずに、起こることを単純に楽しんで見てしまったのだけど、
帰り道、毎年今頃の時期に整備し、梅雨の時期には必ず決壊する近所の河原を通り、砂利の山の前にとまったトラックの運転席に、何かを見てしまうような気がして、視線のもつ意識、というものがあるのかもしれない、などと考えた。

*1:id:ichinics:20060914:p1

*2:ということはあれ、湾岸署?