「バタフライ・エフェクト」から「ひぐらしのなく頃に」

監督・脚本:エリック・ブレス&J・マッキー・グラバー

幼い頃から、時折「記憶を失って」しまう症状に悩まされていた少年が、後に、その「記憶」にまつわる謎を解くことになる物語。
公開終了してから知って、ずっと見たいと思ってた作品。タイトルだけで散々想像しつくして、既にあらすじが出来上がるほどに妄想が膨らみまくっていたのをやっと見た。でも、映画は思ってたのとはずいぶん違う内容で、ものすごく面白かった。
タイトルにある「バタフライ効果」とは、「北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる」という比喩で知られている言葉で、カオス理論*1のひとつ(らしい)。なので私は、原因Aが予想外の結果へ結びつくまでの物語を想像していたのだけど、映画はむしろ、どこにあるかわからない「原因」に振り回され、立ち向かう主人公を描いたものだった。どの糸を引くかで運命が決まる。しかし複数ある糸の先は箱の中におさめられていて見えない。
これはまるで、「ひぐらしのなく頃に」だ。
映画の冒頭、主人公は手紙を書いている。「このメモを誰かが見つけたなら、僕の計画は失敗したということになる」そこから彼の最後の挑戦がはじまる。
そういえば「鬼隠し編」の圭一も手紙を書いていた。ただ、ひぐらしの場合は、圭一の挑戦ではなかったわけだけど、自分の求める未来、幸せになるための未来を求めて挑戦しつづける物語という意味で、二つの作品はとてもよく似ている。「礼」に近いパターン(冒頭につながるとこ)まである。
だから、すごく面白い映画ではあったのだけど、「ひぐらし」後だからか、主人公が最後に選択する分岐にひっかかった。

幸せになるための未来を求めて挑戦する、なんて書くと、全ての人が幸せになんて無理だし、それを求めることでほかの誰かに「バタフライ効果」がおよんでいるのではないか、と思うかもしれない。タイムマシンの出てくる物語で、よく過去に干渉してはならない、というような倫理が語られるのは、そのいい例だろうし、もしも万が一、そんなことが誰にでも出来たとしたら「現在」というものはなくなってしまうだろう。
そう考えてみると、その物語における倫理みたいなものは、過去を変えるということが(とりあえず現状においては)不可能だからこそ、その願いから目をそらすために編みだされた詭弁なのではないかと思えてくる。
しかし、もっと良い選択ができたのではないか、と考えることは、自分の行動が世界にどのような影響を与えることができるのか、考えることでもある。そして、これらの物語は、その思考実験を描いたものでもあったと思う。
その行動は、過去ではなく、未来でもなく、今に繋がっていた。
それが出来たんであれば、あのラストは無いんじゃないかな、と、思う。そこのひっかかりをのぞけば、素晴らしく面白い映画でした。もっと見たい。