道徳を教えるということ

政府の教育再生会議は29日の学校再生分科会(第1分科会)で、「道徳の時間」を国語や算数などと同じ「教科」に格上げし、「徳育」(仮称)とするよう提言する方針を決めた。「教科」になれば、児童・生徒の「道徳心」が通信簿など成績評価の対象になる可能性があるうえ、教材も副読本でなく教科書としての扱いとなって文部科学省の検定の対象となりうる。ただ、反対論も予想され、再生会議での議論は過熱しそうだ。
道徳、「教科」に格上げ案 教育再生会議分科会が提言へ

私が小学生の頃、道徳の授業といえば「幸福な王子」を読んで感想文を書いたりする時間だった。そして感想を発表しあうだけで、正解不正解はなかったと思うけれど、それはいわば「空気を読む力」を養うということでもあったと思う。
「道徳」や「倫理」というものに正解はないはずだ。それは暗黙の了解、多数派にとっての善や快としてあるもので、もしも「成績評価の対象になる」としたら、それは控えめに言っても不粋だし、言葉で言い表し、評価する基準が生まれた時点で、それは道徳ではなく、規則になってしまうだろう。
私は、「自我(のようなもの)」は、規則の外にあるものだと思うし、私が守りたいと思っているのは、それなんだと思う。だから、私の思う道徳と、私のとっての善や快は別にあるということを、守りたい。そして守りたいというとこから、先に行きたいと思っているんだけど、それはまた別の話。
しかし、道徳を教えられ、それを規則として捉えた人たちは、自我と道徳との間にある隔たりのことをどう感じるのだろう?

人間がそういう道徳的感情を持つという事実から切り離されて、道徳的事実なるものが客観的にあるわけではありません。つまり、道徳的感情を持つということは、まず最初に世界の中に道徳的事実なるものが客観的にあって、それを後から表象したり記述したり描写したりしているのではないのですから、当然、そういう感情に真偽はありえないのです。ですから、もちろん、たとえば何かの事件について、他の人の道徳的評価がまちがっている、などと言い立てることもできません。そもそも認識ではないので、まちがえることなど不可能なのですから。「倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦 (哲学教科書シリーズ)」p65