起承転結をほどいてみたい

もしかして、文章というのは起承転結から逃れられないのでは…? って考えはじめたら、落ち着かなくなった。ゲシュタルト崩壊しそうだ。例えば「春だ。春なので、どこかいこうと思ったけど、めんどくさくなった」という文の起承転結は、ブログなどで(たとえばこの日記で)、よく見られる展開形式ですけど「春だ(起)春なので(承)どっかいこうと思ったけど(転)めんどくさくなった(結)」って、見事に固まっていてなんとも歯がゆい。かならずしも起承転結の順だってわけじゃないけど、でも全ての文はそうやって「起」「承」「転」「結」グループに割り振ることができちゃうんじゃないでしょうか。ほら(起)、今書いてるこれだって(承)いつのまにか割り振られている(結)! ってまぁ、自分でやってるんだけど(転)。
もちろん、起承転結という「意味」に当てはめるのは文を読む側のすることであって、文章が起承転結を持っている訳ではない。だけども、私がそこに意味を見いだそうとした瞬間に、そこには起承転結が見えてしまうんじゃないでしょうか。そして、それは文が書かれている瞬間には意識されてないことのはず。
話をしているとき、言葉を使っている時というのは、起承転結から逃れているような気がする。そして、そのような文章というのも、ある。起承転結に割りふれないような文章、意味より先に見えるものがあって繋がる文章、っていうのを、読んだことはあるはずだけど、書けるものなら自分でも書いてみたいと思った。
ちなみに以上の文は、「起承転結」という言葉の使い方として間違っています。結。