「萌え」についての雑感

Something Orange』さんのエントリ(以下引用)を読んで考えたこと。

たぶん、こんなふうに考える方もいらっしゃると思います。
何を言っていやがる、十代前半にしか見えないような、あるいはもっと幼く見えるような少女に「萌える」行為は、それだけで十分ロリコン的じゃないかと。
お説ごもっとも。でも、やっぱり絵と生身の人間には落差がある。
(略)
だから、少なくともあるひとがあるイラストレーションに「萌え」たからといって、すぐに幼女性愛者とか、その候補だと考えることは無理がある。
やっぱり「キャラ絵」と生身の人間のあいだには暗い深淵があるのです。
それでは、幼女性愛者でもないくせに、なぜ幼女の絵に「萌え」るのか。これは、正直、自分でもはっきりとはわからない。
Something Orange - 萌えと幼児性愛に境界線は引けるか

オタク文化について語られる文章を読むときに、なんかこう、女にはわかんないよみたいなことを言われたことはないのに感じることはあって、今回の話題もその範疇に入るのかもしれませんが、とりあえず疑問なのは、「萌える」行為とは、性欲に繋がっているのかな? という点。
言葉の定義はわかりません。けど、これまで私が読んだことのある「萌え」表現の文脈を思い起こしてみると、それはその一歩手前のような気がするのです。それが性欲に繋がることはあっても「萌える」感情自体が欲求なわけではないというか。
たとえばkaienさんのエントリに挙げられている中でいうと、私はばらすぃーさんの絵が好きで、ファンですと言えるほどに見てはいないけれど、フィギュア買っちゃうくらいには好きだ。他に「萌え絵」範疇に入りそうなもので好きなのはノ、okamaさんの絵とかはいるかな。ちょっと定義がわかんないんだけど、ともかく、私が女の子のイラストに「萌えてる」のだとしたら、それは「造形美」に萌えてるんだと思います。猫!猫!かわいいー!とかいうのと極めて近い衝動で、「もっと見たい」とか思うのは、その先の欲求だと思う。

でも、その「造形美にときめく」はたぶん、「萌え」の用法としては変化形だと思う。
上記引用したエントリでは、『キャラ絵」と生身の人間のあいだには暗い深淵がある』というところにポイントを絞って考察されていますが、私の、ひじょうに個人的な雑感を書いてみると「萌え」という言葉は、その「深淵」や「落差」「ギャップ」に出会うこととともに使われるのではないか、と思うのです。ただし、それは「生身の人間」との間にあるギャップではないような気もするので、kaienさんの書かれてることとは少しずれるかもしれません。
ともかく。
「弱そうなのに強い」「強そうなのに弱い」「子どもが大人びている」「大人がこどもじみている」「明るい子の涙」「いつも大人しいあの子がわらったノ」「猫がしゃべる」「人間が猫」「学校が要塞」「あの子が変身」「生徒会長はニンジンが苦手!」「厳しい先生が居眠り!」「セーラー服と機関銃!」などなど、まあ中には微妙なのもありますけど、これらのギャップが、『隠されていた間のことを考える』ことでおこる感慨を「萌える」というのではないでしょうかと言ってみたい。
でも、そのギャップの多くは、対象の弱点がさらされることでもある。上の例とはかけ離れてるかもしれないけど、まあそうだと思う。そこに、ちょっとしたうしろめたさのようなものを感じることはあるのだけど、ともかく、その感慨自体は、ベクトルではあっても欲求ではないと思う。どうかな。
そして、なんらかの感慨を抱き、その感慨について検証するのは個人のレベルで行われるものだ、とも思います。なんだか自己責任論みたいだけど、肯定も否定も行き過ぎるとそれはルールになっちゃうのでつまんないな、と思いました。