女の子になりたい男の子

大阪ハムレット」を読んで、最も印象に残ったのは「放浪息子」のニトリ君を思わせる「ヒロ君」が主人公の物語だった。
とにかく設定がとても良く似ていて、クライマックスの男女逆転劇があるところもそっくり、なのだけど、受ける印象は全然違う。

ボク 女のコになりたいと思てます
ボク 真剣やから 変にからこうたりせんとって下さい

ヒロ君が主人公の物語は、彼が学級会でこのように宣言するところからはじまる。
放浪息子」の世界が、どこか閉じているように感じられるのは、登場人物たちがほとんど「うつくしい」からなのではないかと思う。箱庭があって、そこでシミュレーションを繰り返しているような無機質さ、とでもいえばいいんだろうか。それは、キャラクターの内側にある輪郭をもたない感情を、浮き彫りにする「やさしい」装置でもあるのかなと思うんだけど。
しかし「大阪ハムレット」に出てくるのは、絵柄のせいもあってか、みなうつくしいのかどうか、よくわからない人ばかりだ。特に、「ニトリくん」と同じ立場にたっているヒロ君の場合、物語の中にそのような視点は(ほとんど)ない。でも、だからこそ、周囲の人のやさしさが、際立つのだと思った。
つまり、二つの作品は、よく似た設定で、別々のことを描こうとしているんだと思う。
「ヒロ君」は物語を読むとわかるように、「女の子の格好をしたい」気持ちに理由がある。そして、それはあくまでも(いまのところは)女の子の格好をしたい、という欲求なのだろう。それを見守る大人たちの視線には、ぐっとくるけれど、同時にその女装はいつか乗り越えられる予定の「困難」なのかもしれない、と感じる。
対して「放浪息子」で描かれるのは、アイデンティティとしての性、なのだろうな。だからこそ、美醜の問題は二の次として、彼らは守られているんじゃないだろうか。なんて。

いろいろ考えてはみたものの、全然まとまらない。