よくありたいと思うことの意味

目の前に、募金箱がある、そこには「アフガニスタンの人達は、4人家族で200円あれば1日暮らしていける」と書かれてある。
それでも、その文字が目に入りながらも、私はおやつを買うとする。
「G★RDIAS - 「本当は、できるでしょう?」の原初的風景」

それを「間接的な人殺し」といえるかどうか、ということについて、書かれた文章をいくつか読んで考えたことを、なかなかまとまらないんだけど書いてみます。
まず、上のエントリを読んで思ったのは、そこにあるのは「募金しなかった」という事実だけだ、ということです。
募金できるのにしなかった、と思い後から罪悪感に苛まれたとしても、自分が募金をしなかったことなどすぐに忘れて、お菓子をおいしく食べたとしても、そこに「外側から見えるような」差異はない。ほんとうはこう思っていた、と自分の「善さ」を主張したって、「しなかった世界」では何も起きません。
もちろん、その自戒が芽生えることによって、これからの行為に影響があるかもしれません。でもそれは行為として世界に関与した時点ではじめて、「意味」をもつことであり、いくら心根の美しい人であっても、その美しさは他者によって知られることなしには「意味」を持つことができない、と私は思います。(意味、という言葉の扱い方はとても難しくて、これは私がいま考えていることの中心(のひとつ)でもあるのですが、とりあえずこの場合は、目的が達成されること、のような「意味」です。そして私は、自分にとって大切なものならば、意味などなくてもいい、とも思っています。とりあえず、いまのところは。)
ですから、「本当は、できるでしょう?」と問われれば、できるのにしなかった自分を認めるしかありません。ただ、それを悪であると言うのは(別に誰かがそう言っているわけではないですが)、間違っていると思う。

「間接的に人殺し」であるかどうか、という点でいえば、人はすべて間接的な人殺しであると思います。それを指し示すのに、上記エントリの例えはちょっとわかりにくいと思うけれど、要旨は、つまり自分が利己的であることに自覚的にいたい、ということだと読みました。
上記の例だけでなく、ありふれた日常の中にも、できたはずのことは無数にあるのに、それらを見過ごし、自分の小さな幸せを、たとえば200円のおやつを、私は優先する。そのこと自体は、悪いことではないと思うし、逆に言えば、200円ばかりで救った気になる、と考えるのも、欺瞞であるといえばそうだ。でもそこにはとりあえず「行為した」という意味がある。
ただ、「できるのにしなかった」ことで思い悩んでしまうのだとしたら、それは「私にとって悪いこと」だ、と言うことはできる。
例えば、私が電車でおばあさんに席を譲ったとする。それは善いことでしょうか? 善いことだとするなら、それはまず、私にとって善い(心地よい)ことなのだと思います。おばあさんにとっても善いことであったなら、うれしいですけど、そうでない可能性だってあるはずです。
そして、私が善いことだと思ってすること、ほんとうはやだなーと思っているのに義務だと思ってすること、その思いの部分は、面と向かっている場合には表情などで伝わってしまうこともあるにせよ、ほとんどの場合「意味」をもちません。そして、もてないのであれば、「意味」という目的を自分にとっての善いことへ、結び付けていけるようにしたいな、と思ってます。

善悪について考えると、答のでない、どうどう巡りになりがちですが、用意された答え(例えば法律や道徳)が、必ずしも善であり正解である、というわけではないということは、覚えておきたいし、考えていたい。

どんな人間文化も、法律や宗教や哲学の制度を進化させてきた。そして、こうした制度によって堂々回りの疑問に特定の答が用意されるとともに、そういう答に含まれた信念でもって人々を支配するための、権威の枠組みが作り上げられている。人は、こうした枠組みが理性や真実に対するドグマになってしまっている、と不満を唱えるかもしれない。しかし、そうした枠組みは、不満と引き換えに、一方では、あらゆる人間が意味のない推論の輪によって時間を浪費してしまうということがないようにしてくれている。解くことのできる問題について心の中で考えているときの方が、ずっと実りの多い生活がもたらされるのである。
しかし、思考がぐるっと回ってもとに戻ったからといって、必ずしも何かが間違っていたというわけではない。なぜなら、堂々回りの思考は、その各段階でどんどんと深く強力な考えを生んでいくのであれば、成長に結びつきうるからである。そうするとコミュニケーションの能力を用いることによって、そういう強力な考えを自分の利己的な境界を越えて広げる方法が見つかり、そうした考え自体がいろいろな人の心に根を生やすことができるかもしれない。こうして、言語や科学や哲学は、いずれは死んでしまう人間一人ひとりの心の限界を越えることができる。
「心の社会」第五章「個性5・2答えられない質問」