言葉で描く風景

「東京猫の散歩と昼寝」さんの「次のうち最も複雑なのはどれか A 自然 B 脳 C 映画 D コンピュータ」という文章を読んだ日、ちょうどうちの居間でも弟が「時をかける少女」のDVDを見ていたので、ここも同じ国だなぁ、なんて思いつつ。その文章の中で引用されていた「偽日記」さんの「時をかける少女」感想とともに、とても興味深く読みました。
私は「時をかける少女」を劇場で見たときの感想にこう書いています。

  • 物語に引き込む大きな力となっていたのが、まずその美術だと思う。教室に貼られた時間割、黒板の落書き、日直の仕事、掃除の風景、鞄の中身。それらのさりげないカットが、主人公の通う学校の空気を形作っている。確かに「今」を描いているはずなのに、鼻先をチョークの匂いがかすめ、階段を上る時の、あのひんやりといた風も、理科室のなぜか黒い机も、準備室の頼りないドアも、すべてが今ここにいる私の手の届くところにあるような気がする。(id:ichinics:20060727:p1)

対して、「偽日記」の感想ではこのように書かれています。

観ながらずっと考えていたのは、アニメーションにおける風景表現のことと、それとも繋がるのだが、アニメにとっての「リアリティ」のあり様についてだった。つまりアニメは基本的に「絵」だということで、「絵」のリアリティは、描かれた対象との類似によっては決して保証されないのだなあ、ということだ。
時をかける少女』では、背景となる風景がとても丁寧に表現されている。しかも、新海誠みたいに、風景が安易に感情に流れてしまうようなことも、抑制されている。そこには過度な誇張や強調、象徴的な変形は抑制されており、きわめて写実的だと言える。
(略)
しかし、絵で、そこの風景をただそのまま写したからといって、それは「その場所」とはほとんど関係がない。ただ描いただけでは、風景画は、風景よりも風景画に似てしまう。アニメはアニメに似てしまう。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.html(07/04/20)

私は背景美術、とくにアニメを見るときはその美術を好きになることが多いのですが、それはたぶん、その風景がキーワードでできているからなのだと思う。そしてそれは、「偽日記」さんが「アニメ的な風景表現というか、風景描写が嫌い」と書かれている理由と、かなり重なる部分があるような気がする。その理由を間に、「好き」と「嫌い」とあるのは別にかまわないと思うのです。ただ、その「理由」というものがアニメ特有のものなのかどうか、ちょっと考えてみたい。

昨日聞いた池上嘉彦さんの認知言語学の講義のなかで、《「古池や 蛙とびこむ 水の音」という句は、日本ではよく知られた句であるが、アメリカ人にとっては「それがどうした?」という反応がかえってくることが多い》というような話があった。それが言語の差によるものなのかどうか、そのへんを言い切ってしまっていいのかは、たった1度の(しかも入門編の)講義だけでは何も言えないのだけれども、ただそのキーワード(古池/蛙/水の音)の並べ方によって、情景に引き込まれるという感じ、その時の作者との視線の重ね方は、私がアニメの美術について感じること(時間割/黒板の落書き/掃除)と、少し近いのではないかと思った。鏤められた断片によって想起されるのは私の中にある記憶(階段/チョーク/理科室)だったりイメージだったりする。
「時」をテーマにした「時をかける少女」では、その背景美術そのものが、時をかける「装置」として活かされていたと思うのだけど、そこを考えるのはもう一度じっくり再見してからにするとして、
描かれているものの表面だけではなく、その奥にある物語を読み取ること。それを前提として描かれているのであれば、アニメの美術は「絵」というより、「言葉」に近いんじゃないだろうか、と思った。これから見るものというよりは、既に見たものを共有するための場。それは舞台が未来であっても、どこか見知った風景や看板やアジア的な混沌が好んで描かれるのと、つながるような気がしている。

追記

そして私は、風景が記号として処理されるということよりは、記号を並べることで「想起されるはず/想起してほしい」記憶というものが、共有されている感じのほうに、興味があります。