「私のどこが好き?」について

前にどこかで「私のどこが好き?」とかいう質問に答えるのは難しいとかそういうのを読んだ気がするのだけど(そしてそれはわりと定番のテーマなのかもだけど)、その質問に対してもっともしっくりくると思えた回答がこれだった。

親子の関係ももちろん“差異の体系”の外にある。親が子どもをかわいいと思うのは、「自分に似たところがあるからかわいい」わけではなく、まして「他の子どもよりも姿形がいい(頭がいい…etc)からかわいい」のではなくて、「自分の子どもだからかわいい」。それ以外に理由はないし、それ以外の理由を求める必要もない。逆に子どもの立場からすれば、自分が親にかわいがられる理由が「親子だから」という単純極まるものだけが安心できる理由で、「顔がかわいいから」だの「頭がいいから」だのといったもっともらしい理由がでてきたとき、子どもの安心は奪われる。そういう評価にまつわる理由が出てきたとき、子どもは親の“社会的な価値の編目”の一画を占める存在にすぎないものになってしまう。/「世界を肯定する哲学」 p218

引用箇所では恋愛と親子関係について述べられていただけだけど、思考前にある感覚というものはおおむね「差異の体系」の外にあるのではないだろうか。つまり、そもそも理由なんてない。あるとしたら、そうだから、としか言えないものが、実は確かなのだと思う。
理由をもとめようとするから、そこにありもしない「比較対象」が生まれてしまう、てことなんじゃないかな。