ローリング

起承転結しない文章を読んで/書いてみたいなぁと思っていて、一文ごとは断片にすぎないのに全体になると何かが見えるような、手前と奥で別々のことが起こっているような、それはもしかしたら演劇のようなものなのかもしれないと昨日ウテナを見ながら考えていた。起承転結しないということはつまり、起を読みながら承転結を思い描いてしまう煩わしさ(もしくは簡便さ)から解放されるということ、ただ目の前で起こる事のみに集中するということ、集中してOKだというルールを提示するということ。と、そこまで思って、もしかしたらそれは流水先生じゃないのかと思った。いや違う。というかわたし流水先生の本は読んだ事がない。ただ、読み終わって、思わず投げた、という友達のハナシを聞いたことがあるだけで、でもハナシに聞くだけでそれはすげえなあと思ったりもしてて、なにがって、読ませることが。最後まで読ませて、しかも投げさせるということが。
私が投げたくなった本といえば、某俳優の小説という名のノロケ話のような「愛する事を恐れるべきでない云々」というやつ一冊きりなんだけど、そういえばこれもその流水先生の本を投げた彼女からもらったのだ。だったが、私の投げたくなった理由は彼女が流水先生のそれに感じたのとはきっと別の理由だと思う。他人のラブレターを盗み読みしてるようなおちつかなさ、感情移入するスキもない文章。しかし読み終えて(読み終えた自分に驚く)も実際に投げることをしなかったのはとよかわファンだからではなく(ではあるけれど)もっとずっと昔にあきらめていていたからで、だからやっぱりラストまで期待させておくことのできた流水先生はそれだけですごい。のかもしれない。読んでないからわからない、けどどっちにしろきっと違う。脱線し過ぎた。
断片を練り合わせて編んでひとつになって別の模様があらわれる文章。私の思う起承転結から解放される文、のイメージに(思い描けるもののなかで)一番近いのはたぶん古川日出男さんだ。あの文章は、なんというか、場と場と場を重ね、転しつづけるような文章。……と、いうことは、つまり終わらなければ良いのかもしれない。断片が重なって大きな物語に包まれる瞬間こそが、結になる? そして、さらに、結でどんな新しい起に繋げるかということが、枠を外す事に、なるんじゃないか。つまり、流水を投げたその瞬間こそが、次の輪にジャンプする、結であり起であるのだろう。
なんて、ダラ書きしてみたくて勢いで書き始めたらなんだか先生にしつれいなハナシになってしまったけど、べつに嫌いなわけじゃないです。ただ、起を読みながら、起だけを楽しめるような、起承転結そろって初めて意味をもつような、そんな文章をさがしてる。