「ゼロ年代の想像力」第1回を読んだ

S-Fマガジン 2007年 07月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2007年 07月号 [雑誌]

先日はてブで知った記事「さて次の企画は - 95年エヴァンゲリオン文化圏の終わり−−知的な塹壕としての「ゼロ年代の想像力」スタートと、よしながふみ「フラワー・オブ・ライフ」完結について」を読んで興味をもち、SFマガジンを買って、「ゼロ年代の想像力」を読んでみた。

はじめに、この連載の目的を簡単に説明しておく。まずは九〇年代の亡霊を祓い、ゾンビたちを速やかに退場させること。次にゼロ年代の「いま」と正しく向き合うこと、そして来るべき一〇年代の想像力のあり方を考えることである。
宇野常寛ゼロ年代の想像力

そして『新世紀エヴァンゲリオン』におけるシンジくんの引きこもり気分が支持されたのが90年代後半の「気分」。対する、ゼロ年代前半の気分は「セカイ系」ではなく、99年の『バトル・ロワイアル』から『Fate/stay night』 『デスノート』に至る「決断主義」「サバイブ感」である……というのが、第1回の流れだったように思う。

時代の「気分」というものは確かにあると思うし、自分も少なからずそれに影響されてきたと感じているけれど、ここで語られてる「気分」が社会的なものなのか、ある文化の中でのものなのか、それとも文化と社会は結びついているという前提/定義の上でのことなのか、私にはわからない。それは自分の視線の届く範囲が狭いせいだと思うのだけど、それでもその範囲の中で、ちょっと考えてみたくなった。

新世紀エヴァンゲリオン

私が「ゼロ年代の想像力」を読んで、まず感じたのは、『新世紀エヴァンゲリオン』という作品は、ものすごい影響力があったし今も語られ続けている作品ではあるけれど、「エヴァのような」作品ていうのは、実はすごく少なかったんじゃないかなということだった。ここでいう「エヴァのような」というのは90年代後半の気分としてあげられている「引きこもり」の気分のことだ。

つまり『エヴァ』の「引きこもり気分」は、「こんなカルトで不透明な社会での自己実現は信じられない」という若者の気分を代弁していたのだ。加えるならば、同じく『エヴァ』で「社会」という物語の衰退の替わりに前面に押し出された「自己(の内面)」という物語(それも俗流心理学的なトラウマ論)が、同じく九〇年代後半に流行したサブ・カルチャーの「気分」の主流となっていく。
宇野常寛ゼロ年代の想像力

エヴァのような作品はたくさんあった。でもそれはここで「加えるならば」の後に書かれている「自己の内面」を描く物語としてのエヴァらしさや様式であり、エヴァに続いた作品は概ね「自己の内面」から外へ、それこそ決断し、出ていく物語であることが多かったように思う。
それらはどれも、思春期の全能感と現実/社会との間にある拘泥をどう描くか、という物語であって、その現実/社会の描かれ方こそが、時代の気分、なんじゃないかと私は思う。シンジ君にとっては父親だったし、ナオ太にとっては「当たり前のことしかおこらない」毎日。そして今見てる途中だけど、たぶん「少女革命ウテナ」も世界のはての外へ行く物語なんだと思う(っていうかどちらも榎戸さんの脚本だ)。
ただ、『エヴァ』が特殊だったのは、それが「主人公が閉じる方向へ向かう」という物語だったからじゃないか。だとすれば、その点において「エヴァのような作品」は少なかったと思うし、だからこそ、そのカウンターとしてその後に続いた作品が拘泥からの脱却というテーマに集中したんじゃないのかな(実際そんなに集中してたのかはわからないけど)、とか思った。

デスノート

ゼロ年代の想像力」で「決断主義」「サバイブ感」を象徴するものとして挙げられる作品の多くを、個人的には「ゲーム」ものとして捉えています。つまり、ある一定のルールがあり、その上にのせられたキャラクターが動く様子を楽しむエンタテインメントとして「ゲームもの」を読んでいる。
例えば、私は「デスノート」をとても楽しく読んだけれど、登場人物の誰にも感情移入しなかったし、その状況を自分の現実と重ねあわせることもほとんどしなかった。そもそも、その必要性を感じなかった。だから「気分」としてエヴァと比較するのは、ちょっとピンとこない。
むしろ現実/社会に対する「苛立ち」を「サバイブ感」に展開させていった舞城王太郎のような立ち位置のほうが、21世紀初頭の空気に近いんじゃないのかなーとか思う。ただ、「ひぐらしのなく頃に」などは、ルール主体の「ゲーム」ものという基盤と自己の内面を繋げてみせた作品という点で、新鮮だった。けどそれは「Fate」とかやってないので、比較できない。
また「自分が閉じること→世界も閉じて行く」という流れとは逆に、閉じていく世界の中で、日常を肯定するという方向へいった『ヨコハマ買い出し紀行』のような作品もあって、そちらの方が個人的な「気分」には近かった。

よしながふみ

しかし、その「サバイブ感」に続くものとして「よしながふみ作品」を位置づけることには、ちょっと戸惑ってしまう。
冒頭にあげた「ゼロ年代の想像力」を読むきっかけとなった記事では、『フラワー・オブ・ライフ』について

まだ消化しきれていない私が本作のテーマを一言で述べることは難しいが、それでもあえて一言で言うのであれば、
セカイ系や特別な自分》を包含し癒し包み込む、『日常の豊かさ』を見つめ直そう
というのが大きなテーマだ。……いや、この一言ではあまりにこぼれてしまう物が多すぎて、自分の語彙と時間の少なさを痛感する。
たとえばそれは、
優越感ゲームに陥りがちなメタ視点・メタ批評ではなく、多視点・群像劇的な視野こそが閉塞感を打ち破る
と言ってもいいかもしれない。
http://d.hatena.ne.jp/./otokinoki/20070531/1180589181

と書かれている。これは、なんというか、それはそもそも「現実/世界」と対決しているわけではないからじゃないかなぁと思う。少年もの/少女もの、と区分けして考えることはあまり好きじゃないんだけど、少女漫画の多くは、とりあえず70年代くらいからずっと、エヴァにあったような思春期の全能感/それを手放す過程を描いてきたと思う。そこに描かれる、自分と、自分の性を受け入れる過程をシミュレートする、というのは今でも少女漫画の読み方として支持されているんじゃないだろうか。
よしながふみのストーリーテリングの巧みさについては、まったくもって同意するのだけど、「日常の豊かさ」の肯定、というのはなにもよしながふみの特別ではなく、むしろ、王道でもあると思う。何の王道か、と問われても、これと言えないのがもどかしいのだけど、それは以前「少女漫画的日常」さんから孫引き引用させてもらった、よしながふみの「フリースタイルvol,2」での言葉に現れていると思う。

「頑張ればなんとかできると、いくら少年漫画を読んでも思えない人たちのために、その人たちがどうやって生きていくかってことを、それは恋愛だったり、っていう、それぞれの形で答えを少女漫画は提示している。」
http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20070122/p3

私の「今の気分」は、と考えてみると、まだ漠然として捕らえ所がないし、言葉にしてしまうのがこわいようでもある。ただ、ここでよしながふみさんが言っているような「それぞれの答え」のおもしろさに興味を持っていることは確かで、もしも、それが流れなのだとしたら、少年漫画/少女漫画の垣根は、今後さらに薄れていくのかもしれないな、と思っている。
ともかく、面白い作品であれば、それが時代の気分にあっていようがいまいが楽しめるのは、過去の作品が物語っていると思う。そして、そこから「気分」を読み解くということにも興味はあるので、「ゼロ年代の想像力」も続きを楽しみにしたいと思います。