「場」としての言葉

tokyocatさんの「年金の長いトンネルを抜けると選挙であった」という文章を読んで、そういえば春にいった言語学講座の感想を書いてなかったなと思い出した。というか、感想をかけるほどまだ理解できていないというほうが正しいのだけど。ひとつだけ、ものすごく身にしみた話があって、それはやはり「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の文章を引用していた池上嘉彦さんの「認知言語学」講座だった。
その講座でもらったプリントにはこう書いてある。

日本語の表現は〈主観的把握〉:話者は現場に身を置いて、自分に見えていることを言語化する。話者自身は言語化されない。
英訳の表現は〈客観的把握〉:話者は現場の外に身を置き、自分に見えていることと同時に、見ている自分をも言語化する。
パラドックス:〈主観的把握〉と〈客観的把握〉とは結果的に同一の言語化の仕方で表現されうる(略)。読む人の立場からすると、どの程度容易に、ゼロ化された話者を想定し、その想定された話者に自らを重ね合わせることができるかによって読みもかわる。
言研春期講座「認知言語学入門」配布資料より/池上嘉彦

そして「古池や 蛙とびこむ 水の音」という句を例にあげ、一見「客観的把握」であるようにみえるこの句は、実は「主観的把握」に基づいて言語化された表現(話者が言語化されていない)であるということを解説していた。読者はその場にいた「人物」に自己投入することでこの句に「感動」したりする。
この話がすごく面白くて、でも自分はそれを日本語という言語の仕組みの面白さとしてとらえているのか、単に言語の面白さとしてとらえているのか、考えてみると後者に近い。

例えば上の句を英訳するとどうなるんだろう?「古池のほとりで、私は蛙が水に飛びこむ音を聞いた」などというと日本語では「私」のイメージに引きずられてしまうところがあるので、「The sound that a frog jumped into the pond」とかかな? でもそうすると、「音」だけが強調されてしまう。
この句の英訳を見せても、英語話者の平均的な反応は「それが?」というものである、と講座で解説されていたけれど、それは英語話者と日本語話者の差異というよりは、上記引用に「英訳では」と書かれているように、「訳すこと」の不自由さのように感じる。
ただ、言語化されていない主語があることで、(特に日本語の話者にとっては)そこに自分を投入できる場を見いだす/見いだしやすくなるのではないだろうかという気はしている。そして、私は、そのように「言葉」が話者から切り離され、思いを投影する「場」としてある感じにすごく興味があるのだけど、「The sound〜」としてしまうと、その「場」はあらかじめ「音」を指し示してしまうだろう。
「古池や 蛙とびこむ 水の音」という句に、のそのそと歩をすすめ、古い池のほとりにたどり着くかえるの様子、鮮やかな跳躍、そして音と、その後にのこる静寂まで、思い描いてしまうのは、たぶん、この句の「場」が広く設定されているからだ。そして、その広さ、曖昧さ、枠のなさは、日本語独特なのかもしれない。
きっと英語にも、「場」を広く設定するやり方はきっとあるんだろうけれど、それはもっと具体的なものになんじゃないだろうか。いつか、英語を話す人に質問してみたい。

しかし、それがどんな言語にしろ、言葉を通して「自己投入」することができるっていうのは、ほんとうにすごい能力だと思う。そして、その「場」を通して、重ねることのできるものがあるんじゃないのかな、あったらどうなるんだろう、と考えています。