「場」のイメージ(&25日追記)

先日(id:ichinics:20070614:p1)引用させていただいたsfllさんのエントリの続きで、図解をされているものがあげられていたのですが、それを読んで私は完全に「場」と「閉鎖系」にはじまるいろいろをごっちゃにして読んでいたことがわかりました。申し訳ないです。
とてもイメージしやすい図解でした。

偽装部 - ポケットのなかは暗くて、帽子がみつからない - 「場」トーとか元「個」の続き

それで、ちょっと自分のイメージしてたことも図解してみようと思ったんだけど…これがものすごくむずかしい。なんかもうアウトプットした時点でかわっちゃうのがもどかしいので、たぶんもうやらない、と思う。でも、せっかくつくったものはとりあえずあげてみる貧乏性。
たたみます。

まず、Aの話す言葉、振る舞いはいつもA自身(のようなもの)から少しづつずれている。というのが黒丸に重なっている白い線。そしてBが見るAも、Aの描く線とは重ならない。これが私の思った「勾配」です。

Aがなにか言葉を発するとき、そこにあるのはAからはこう捉えられているとします。真っ白。

しかし実際Bに伝わるのはその一部分で、言葉には影ができてしまう。重なり(白部分)が大きければ大きいほど、理解度は高いということになるのですが、時にはその形がまったく異なるものとして捉えられてることもあったりして。

でも、時間を経てAがA'になったとき、その言葉の食い違いとともに、自分の言葉を客観的に見れるようになるんじゃないか。それは「理解」とは少し違うけれど、その可能性はあるよねと思います。ただ、もうその場(この場合かさなった吹き出しの部分/sfllさんの書かれてた「場」のイメージとは別物になってるけど)には関われない。

そして、このA'と同じ軸にいるのが観測者Cだと思うんですが、Cもまた場に関わっていないからこそ、それを「場」として見ることができる。
で、前書きたかったのは、こんなふうに言葉を俯瞰するのに、文字ってのはわりと簡単に軸を移動できるツールなんじゃないかってことだった、と思うんですけど…。
でもこうやって出してみると、何か違う。違うんだ。図解したのに全然わかりやすくなってない、てことにがっくりしつつ。ただ、最初の図のBの視点というものがあるからこそAは「場」に登場できるものでもあるのかな、と思う。その辺もっと考えてみたいです。
しかし図解ってのは読む側としては便利だけど、いざやってみるとイメージが固着してしまいそうでこわい。

追記

わーやっぱわかりにくい!ですよね!
nekoprotocol さんのブクマコメントに答えて追記。

Bのいない非公開日記では、A'はありえないのか、どうか・・
http://b.hatena.ne.jp/nekoprotocol/20070625#bookmark-5098917

日記に例えて書いてみます。
図4の縦長の箱は、時間とか心的距離みたいなものをイメージしています。ダイアリーをつけた日数100日のAと300日のA'とみたいな感じですね。
で、AのAによる非公開日記のばあい、そこに他者Bはいないので、A→A’の流れしかない。仮にAが日記空間にだけいるとしたら、日記を書くのは、観測者としての行為であって、他者に見られることのない(つまりA'のためにだけある)Aの言葉は、場を作れない。つまり、

  • 「場」は他者Bがいないと作れない

でも公開日記だって、コメントもメールもトラバもないよ、Bなんてみたときないし、場があるかどうかなんてわからない!って思うかもしれないです。思います(それがいいときもあればわるいときもあるんだと思うけど)。
それでも、言葉を公開することは、どこかで場を作る可能性をともなっています。
例えば…Aさんの書いた記事に対してBさんが反応してるんだけど、Aさんは気づいてなくて、でも2人のダイアリをアンテナに入れているCさんだけが気づいてたり、とか? なんて珍しい(たぶん)ケースだけでなくって、そもそも書いてるときというのは、誰からどんな反応がもらえるかなんてわからない。反応はなかったな、と思って忘れていたら、既にAが観測者A'になった頃に届いたりする。そんな時間軸のずれた場が乱反射している、のが、インターネット、だったら、面白いなとか思ったりしてます。ともかく、

  • 「場」があることは、観測者があらわれてはじめてわかる。

ともいえるんじゃないでしょうか。どうかな。
三日後の私'はこの文を読んで眉をしかめるんでしょうか、それとも続きをかきたくなるんでしょうか。とりあえず今は、まだ首を傾げています。