「ヴィーナス・プラスX」/シオドア・スタージョン

スタージョン作品をいくつか読んできて、私はすっかりスタージョンのファンになってしまった。つまりスタージョンの作品は、どれもスタージョン流の哲学につらぬかれていて、その点ではこの作品も例外ではない。
けれどこの作品のテーマでもある「ジェンダー論」というのは、読む際に否が応でも自分の立ち位置を照らし出すものであり、読んでいて少なからず辛いところもがあった。たぶん、自分にとっては、あまり考えたくないことなのだと思う。
ただ、やはりスタージョンの思想のようなものにはやはり好感を抱いたし、このテーマが、スタージョンにとって切実なものであったことも、伝わってくる。

ヴィーナス・プラスX (未来の文学)

ヴィーナス・プラスX (未来の文学)

物語は、主人公が自らの名前を思い出すところからはじまる。チャーリー・ジョンズ。彼が目覚めたのは、レダムという世界。そこに暮らす人々は、「男でも女でもない」。チャーリーは、自分をもといた世界に戻すという約束とひきかえに、レダムについて「知る」ことを求められる。

何の取りえもない人間が自分が優れていると証明する唯一の方法は、他の誰かを劣った存在とみなすことだ。この強烈な欲求が人類を駆り立てて、遥か有史以前から、人に隣人を支配させ、国家に他の国家を隷属させ、民族に他の民族を制服させてきたのだ。p209

しかし「私は差別されている」と言うこと自体が、私以外を差別することにならないだろうか…。結局言えるのは「私が差別している」というその一言なんじゃないか。そしてスタージョンはそれをしているのではないか。
「ヴィーナス・プラスX」は、レダムでの日々と交互に描かれる、現代(50年代)アメリカの家庭でのエピソードが、現実にある「性差」にまつわる問題を浮き彫りにしていく構成になっているのだけど、そこでの描写は当時にしてみればスタージョンの告発だったのではないかと思える。
そこに救いを見いだすのなら、

男性と女性の間には、差異よりも多くの基本的な類似がある。/p224

という一言になるのだろう。すると、ここで描かれる「レダム」こそがその差異を埋め完全に同一となったユートピアに感じられてくる。その意識の移ろいは、主人公であるチャーリーのそれを追いかけるような格好で進むのだけど、しかしやがて引き離されることになる。この価値観をゆさぶるような構成こそがスタージョンの魅力であり、誠実さなんだと思います。
って、スタージョンの感想を書くと、いつも、その誠実さに落ち着いてしまう気がする。