知らないは見えない

数日前、アンテナからのぞいた、どこかのダイアリに「人が死ぬ話はかなしいにきまってる」って書いてあった。どちらで見たのか、わからなくなってしまったんだけど、ああそうか、かなしいに決まってるよなと、おもった。
でも、そのかなしさは平等じゃない。
例えば、「ぼくらの」切江編で、たしか映画を見た切江が、「主人公の死には涙するくせに、映画の爆発だかのシーンで死んでいく名もない人々については、なぜみんな平気な顔して見てられるんだ」と問う場面があった。
それを思い出しながら、もしかしたら、人が「人」になるには、誰かに知られる必要があるということなのではないか、と思った。名前を知り、声を聞き、その表情をみる。どこまで知れば「人」として感じられるのかはわからないけれど、きっとそれは、相手の思いのようなものに、触れたか触れないか、だったりしないだろうか。
そして、その認知が他人の視線を通したものであっても、例えば小説や映画に、涙するように、手触りを感じることはできるだろうし、また知らない人を知っている状態の「人」に重ねあわせて感じることも、あるかもしれない。
知らないということは、かなしい。でも、だからこそ知らない人とかわす一言は、ただの挨拶だったとしても、うれしいんだろうな。