ノーミュージックノーライフの思い出

タワーが「ノーミュージックノーライフ」というキャッチを使い始めた当時のこと。
東京の片隅にある町のCD屋で、レコード磨いたり、レジ打ったり、検品発注品出し査定まとめてドン!な日々を送っていた私は、自分のこの生活もまた、ある意味音楽で飯をくうということであって…、ノーミュージックノーライフであるといえなくもないよねえ、なんて冗談みたいなことを思いつきで口にだし、同僚に鼻で笑われたことがあった。
「じゃあ、お前にとって音楽はどんだけのものなんだよ」
その同僚は、私より5つくらい年上の文学青年然とした人で、普段からそんな(相当青臭い(いまなら赤面しそうな))ことを、真顔で聞く人だった。そんで、同じく青かった私も、わりと真剣に答えを考えてみたのだけど、結局うまい答えを思い付くことはできなかった。
もちろん、音楽はわたしにとってとても大切な存在だったし、音楽のない生活なんて考えられなかった。けれど、改めて考えてみると、私と音楽の間には、いつも届きそうで埋まらない距離があった。もしかしたら、ほかのひとに聞こえている音と、私に聞こえている音は、全く違うんじゃないか、なんて疑うこともあった。
ただ、「じゃあ、カトウ(仮名)さんは?」と問い返したときに、彼がいった台詞のことは今もよく覚えている。彼は音楽のことを、
「一本の紐」
といったのだ。いっぽんの、ひも……ですか。 私は瞬間、黙り込んだ。そのこころは、という疑問よりも先に、なんだそのメタファーっぽいの…という戸惑いの方が先にあったので「なるほどねえ」なんていって、その話は終わった。

それから数年後、まあなんだかんだで、私はとても落ち込んでいた。自分を客観的に見ることが難しいくらいに落ち込んでしまって、いろいろ迷惑かけたりもしたはずで、だからあんまり、思いだしたくもない。
でも、そんなふうになってやっと、音楽って、そうか、自分の気持ち次第で形のかわるものでもあるんだなと、思えたような気がする。与えられるだけ、提示されるだけのものではなくて、もっとごう慢に、自分のために、引き寄せていいのかもしれない。そうやって音楽を聞きまくって、本を読みまくっていたら、いつのまにか引き上げられていた。あー、これって平和なんだな、なんて具合に。
そして、あの感じを例えるなら、紐を掴む、というのに近いのかもしれない。もしかすると、カトウ(仮名)さんは、そういうことをいっていたのかもしれない。なー、なんて、まあ確認するすべはないんですけど、思った。そして、それこそが私の感じていた、距離なのかもしれません。

それからさらにずいぶん経った今も、私は自分にとって音楽とは、なんて一言でまとめることはできない。ただ、それは、なければならないものというよりは、あることを喜ぶもの、というのに近いような気がしている。

だったらもうちょっと、うちのCD棚、整理できるはずなんだけどね。