「もし世界に真のパンチラというものがあるならば」

例えば、カウンターカルチャーと呼ばれるもののように、抑圧されることへの怒りに支えられた文化は、それが認められ、迎え入れられること、つまりメジャーになることが、同時に敗北をも伴うというジレンマを持つ。要するに「真理は戦うことができねばならず、敵対者を持たねばならない」。
だとすれば、もうずっと前から、パンチラは敗北していたのではないか。

おれがアニメやイラストのパンチラに敬意を払えない理由といえばこれはもう一つしかなくて、そのパンチラが用意されたパンチラ、約束されたパンチラだからだと思う。
http://d.hatena.ne.jp/./nekoprotocol/20071025/1193314278

喜んで食べたあの地鶏が、実は廃鶏だったというこの屈辱。鶏肉には適正価格と安全性を求めるように、真のパンチラには偶然性が求められねばならない。
あらかじめ定められ、供給過多となったパンチラ、世に迎合したパンチラはすでに不真理である。パンチラとは、それを抑圧する敵対者があってこそ、真のパンチラたり得るものなのだ。
では一体、その抑圧者とは、何だったのだろうか。
現在の状況を考えれば、その偶然性を奪い去ったのは、商業主義だともいえる。しかし、それは一面でしかない。パンチラとは、もともと見えないものを見ようという欲望によって生まれたファンタジーなのであるから、「パンツ装備者当人」もまた、敵ではない。
敵はパンチラを見たいと願う者の中にこそある。
今こそ、パンチラは苦しみを受け、その後ふたたび、偶然として発明されるべきなのだ。やがて彼らは描かれていない、画面に映ってもいないそれを見るだろう。
「もしも、世界に真のパンチラというものがあるならば」、そういうものだと私は思う。
"Give Me Liberty or Give Me Death!"
ごせいちょうありがとうございました。

ちなみに

ネコプロトコルさんの「おれがアニメやイラストのパンチラに敬意を払えない理由」というエントリを読んで、思いだしたのはこの文でした。

状況が悪くなればなるほど作品は尖ると思うので、アニメは一度死んでしまう方がアニメのために良いんじゃないかなと思います。だから政府のアニメ支援なんて全く余計なお世話っていうか。支援されるより、規制される方がまだマシなんじゃないでしょうか? パンチラ規制の方がまだ良い。パンチラ規制されても、まだ何かやれる。パンツを隠す絶妙なアングルの発明とか。そういう考え方の方が好きですね。
「土曜日の実験室」p124 より

わたしもそっちのが好きですね。ところでパンチラってなんですか?