コピーロボットという私

再び、コピーロボットの話。パーマンの設定が正確に分からないので、ここではコピーロボット

  1. コピーロボットの鼻を押した者をコピーする
  2. 鼻押者と鼻押者コピーは別々の意識をもって行動する
  3. 鼻押者とおでこをくっつけあうことによって記憶を共有する
  4. 再び鼻を押されることで元に戻る

ものと仮定します。
さて、この4番目の「元に戻る」っていったいどういうことなんでしょうか。2の段階で、鼻押者と鼻押者コピーは別々の意識を持って行動しているわけです。鼻押者コピーが自らを「コピー」と認識していると考えるのが、まあ一番らくちんなわけですけど、仮に1のコピーが完全なものだったとすれば、鼻押者コピーは、自分のことを鼻押者、もしくは鼻押者とは別の、「私」だと思っているはずです。
「私」は、再び鼻押者に鼻を押されることによって何度も復活できるわけですけど、鼻押者と別れていた間の時間を自分のものだと認識していたなら、それは何度も繰り返し、終わっているということになる。
一方、鼻押者は、おでこをくっつけあうことによって、鼻押者コピー、つまり他人の記憶を脳内に蓄積していきます。これってどういう気持ちがするものなんでしょうか。
そこに、ああもうすぐ俺終わるんだな…、ていうコピーの意識みたいなものは混じらないんでしょうか。混じっていたとしたら、鼻を押せなくなるんじゃないかな、なんてことを、ぼんやり考えています。

それから、SF小説だと、自分のバックアップをとってあることで、死の恐怖を克服する、なんていう設定はわりとよくあるのかもしれないみたいなんですが(←自信がない発言)、鼻押者はコピーロボットがいることで、恐怖を克服できるのでしょうか。私にはそうは思えない。私は単純に、それに納得できるという気がしない。それはなんでなんだろう、とか。

どちらか一方が私なら他方は私ではない。これは前提である。このとき、どちらか一方だけが私でありうる、というのがカント的意味で、この特定の側が現に私になってしまっている、というのがライプニッツ的意味だ。
「私・今・そして神」/永井均 p174

後者の視点はに立つことで、鼻押者と鼻押者コピーは完全に別れる、と思うんだけども、それはなにもコピーロボット云々という話だけでなくて、いまここにいたって同じ事だ。沈んでくようで浮かんでくような、そんな気持ちがする視線。