「きのう何食べた?」についてもうちょっと

先日自分の書いた「きのう何食べた?」の感想(id:ichinics:20071125:p1)は、少々乱暴だったなと思い、もう一度考えてみたくなった、ので考えてみようと思います。そのきっかけとなったのは、

しかしそれをもって作者の切実さの不在=冗談っぽさを見るよりは、むしろさんざん言い尽くされ古臭ささえ漂うにもかかわらず、いまだになされる「切実であれ!」「主体たれ!」といった<呼びかけ>―「主体」に「家族」や「異性愛」を代入してもいい―をはぐらかすためにあえて取られた形式と見なすこともできるのではないかと思う。
http://d.hatena.ne.jp/./kebabtaro/20071129/p1

というkebabtaroさんの感想を読み、なんだか目から鱗な気分になったからであり、その後、toukaさんからいただいたコメント(http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20071125/p1#c1196376973)を読んで、自分の感想が恥ずかしくなったからでもあるのだけど、そうしてもう一度この漫画を読み返してみても、やはり私にはいまひとつ感情移入しにくい作品だった。
もちろん、感情移入できる作品でなければ、と思っているわけではありません。ただ、前の感想で「作者にとっての切実ではないよな…」と書いてしまったのはやっぱりよくなかったと反省しています。なにも、よしながふみという漫画家自身が、自らをどのようにとらえているのか、というところを提示するべきだといいたいわけではなかったのに、今読み返すとそう読めるのが恥ずかしい。
再読して思ったのは、この作品が、40代をむかえ、結婚をせずに人生の後半をどうすごすか、という問題について、軽やかさ/そもそも「あたりまえ」とされているだろうことからの解放、を提示するものであると読むならば、1巻の最終話で描かれる「料理を作っているときって無心になれる」というあの瞬間が、ぐっと深い意味をもつように感じられる。し、自らの理解者であると感じていた佳代子さんの「だって筧さん あたしにとっては他人じゃない/実の子供なわけじゃないもん」という台詞に、思うこともいろいろあって、それをあのように静かに受けることのできる主人公に好感を持つ。
それなのに、なぜ私はこの物語に入り込めないのか、考えてみたところ、それはたぶん、シロさんと矢吹さんの関係を、作者がどう描こうとしているのかが、いまいちわかんないからなのだと思う。物語は基本的に、その二人の関係性を安定したものとして描いている。なのになんだか世間との齟齬の気配、みたいな描写が多く、じゃ、シロさんは何を求めているんだろう? 何が問題なの? それは同性愛者であるということなの? という疑問がまとわりついてくるようで、じゃあなぜそこに踏み込まないのだろう…というもやもやした気持ちが残ってしまう。
それから、主人公がDV被害にあってる男性の弁護を受け持つ回(7話)での、加害者である妻の描かれ方(ちっさくてカワイイ女性じゃないですか、ってやつ)も、そうやって「先入観」を否定するのは、逆にそれが「ある」ということを示すことでもあるよねーとか。でもそれはあるんだよねやっぱ、とか、臭わせつつ、その辺にあるはずの葛藤を、うまくやり過ごしている感じが、どうにも歯がゆいのだった。
でもそこに、自分の視線の不自由さがあるような気もしていて、ま、要するに身につまされる部分が多い(からこそ、ずらされるのと落ち着かない)、ってことだと思います。
まあ、1巻でた段階でうんうんいってても仕方ない気もするので、続刊を楽しみにしつつ、もうちょっと考えてみようと思います。
(また結局煮え切らない感想になってしまった…。)