「ゴーダ哲学堂 悲劇排除システム」/業田良家

ゴーダ哲学堂シリーズ(?)は初めて読んだんだけど、面白かったです。
いくつもの「もしも」があり、それに対する思考の過程が物語になっているようで、読みながら、自分だったらどうか、とか、いろいろ考えることができて楽しい。
ただ、お話は作者の「哲学」を結論に描かれているので、考えるつもりで読んでいると、多少むずがゆかったりもする(というか読み方が間違ってるのかもしれないけど)。たとえば『ワレワレノ感知機構』は、ヒト形ロボットが「感じる」ということにあこがれ、人間の幸福さを思うお話なのだけど、ここでこのロボットに諦念を見るのは私が感じる側だからなのだろうか? 「私はいつか感じることができるのだろうか―」と感じることを求める気持ちは、感じることとは違うのだろうか、とか思った。ただ、五感がデータの積み重ねとは別物であるというのは面白くて、例えば「冷たい」ということがわかることと、「冷たさ」をどう感じるのかは別なんだよなーということを考えたりした。
『悲劇排除システム2』は、「美と健康と若さ」を追求した結果、人々の容姿がどんどん似通っていった世界のお話。これはなんとなくありそうで面白かった。お話は容姿も人生であるという方向へ行くのだけど、この場合はむしろ、容姿以外の何で他者を識別しているのかっていう方向に興味がある。
それから、この本には「言葉にあるものはすべてある」という言葉が何か所かに出てくる。この言葉はきっと作者にとって大切なものなのだろう。言葉にあるものはすべてある、というか、言葉があるということは、それがすでに「ある」ということを示しているはずだ。言葉は、何かがあってしまっているところからしか生まれないし、ない、という状態すら、「あった」ということの上にしかないはずだから。

それは、ほんとうは、「ないこともできた」のです。でも、「あってしまっている」。このことこそが、まずなにより驚くべきことであり、きちんと気付くべきことである、とMは考えるのです。「何か」の中に存在するすべてのモノやコトや概念や関係は、人間の歴史や恋や愛や”死んだり死なせたり”や、真偽や善悪や美醜や、普通の人が問題だと思っている全てのこと、幸福も希望も、そういったあらゆるすべては「何かがある」ことの上にしか成り立たないからです。
http://d.hatena.ne.jp/./michiaki/20050930#1128090049

お元気でしょうか?