「さてと」と彼は言った。

【本の内容に触れています】
ときどき、わりと頻繁に、アンヘラ・ビカリオとバヤルド・サン・ロマンのことを思いだす。ガルシア・マルケス『予告された殺人の記録』の終盤で描かれる、彼らが再会する場面は、私がこれまで読んだ物語の中でも、ひときわ印象深く思い起こされるもののひとつだ。

あるとき、ふらりと町に現れたバヤルド・サン・ロマンは、町の娘、アンヘラ・ビカリオに一目惚れする。アンヘラは気乗りしないままだったが、やがて婚礼の宴が執り行われることになる。しかし、その夜、彼女が実は処女でなかったことがわかると、彼女は一夜にして実家に戻されてしまう。相手は誰か? 問われたアンヘラは、近所に住む裕福な青年サンティアゴ・ナサールの名を挙げた。すると、アンヘラの兄たちは、家族の名誉を守るため「サンティアゴを殺す」と予告した。

『予告された殺人の記録』は、その綿密なプロットと、閉鎖的な地域共同体の描写、人々の思惑のすれ違いを自然に読ませるところが、非常にうまい。ガルシア・マルケスらしい作品だ(と私は思う)。
ただ、私にとっては、物語の大筋(つまり予告された殺人について)とはあまり関係のないところで描かれる、アンヘラとバヤルド・サン・ロマンの物語のほうが、予告された殺人それ自体よりもずっと、印象に残ってしまっている。
婚礼には気乗りしなかったものの、バヤルド・サン・ロマンと別れた後のアンヘラは、何年もの間、バヤルドに手紙を送り続ける。この、決してメロドラマにはならない間の悪い情熱が、物語の「ねじれ」になっている。張りつめた空気の中に突如として鳴り響く陽気なファンファーレのように、少し居心地が悪いけれど、そういうものだ、と思える。
やがて年月が過ぎ、年老いたアンヘラの前にあらわれたバヤルド・サン・ロマンは、こう語りかける。

「さてと」と彼は言った。「やって来たよ」

この、間の抜けた図々しさがいとおしい。まぶしそうな、その表情が目に浮かぶようだ。(というのはまったくの、私の主観ではあるけれど)
物語全体を読むと、彼らは“予告された殺人”の間接的な加害者であると同時に、被害者なのだとも思う。彼がやってくるまでの年月は、まあ必要な年月だったのだろう。
「だれかもつれた糸をヒュッと引き 奇妙でかみあわない人物たちを すべらかで自然な位置に たたせてはくれぬものだろうか」(『バナナブレッドのプディング』)

彼は着替えの詰まった旅行鞄のほかに、もうひとつ同じものを持ってきていた。それには彼女が彼に書き送った、二千通余りの手紙が詰まっていた。手紙は日付の順に束ねられ、色つきのリボンで縛ってあったが、すべて封は切られていなかった。

そして、アンヘラの手紙を読まずに、しかし日付の順にリボンで束ねている、というこの描写が、私はなによりすてきだと思う。その仕草を想像すると、なんつーかこう、たまらない気持ちになるし、この場合「読まれなかった」のではなく「読む必要がなかった」のではないか。
2人がなぜ、こうなったのかはわからない。ただ単純に、手紙を書き続け、束ね続けたというこの、元・1日だけの夫婦の、わけのわからない情熱と邂逅は、「ただ、そうなった」こととして描かれる。その感じがとてもすきだ。なぜすきなのか、その理由はわからないけれど。

予告された殺人の記録 (新潮文庫)

予告された殺人の記録 (新潮文庫)