殺したくない、と思うわけ

例えば私は、死刑制度なんてなくなったほうがいいと思っている。それが犯罪抑止力として役立つとはあまり思えないし*1、なにより自分がその「死刑」の一端を担っていることが、にもかかわらずそれを遠く感じていることが、嫌だからだ。しかし、好むと好まざるとに関わらず、この国の国民である時点で、その制度があることに、参加していることになる。つまり、私もまた人を殺している、と、考えるだけでぞっとする。
それは被告に対する同情とかではなく、単に、自分が人一人が死ぬ、という大事に関わりたくないという利己的な感情にすぎない。
とはいえ、罪を犯した人は、その罪に対して何らかの罰を受けるべきだ、と思ってもいる。それは今、人が集団で暮らす場のルール/法律としてあるけれど、
本来、それが起こらずにすむ、という理想は罰があるからではなく、個々人に期待される「品性」のようなものによって支えられているはずだ。
もちろん、そこを踏み越えてしまうような瞬間は、訪れて欲しくはないけれど、確かにある。例えば自分や自分の大切な人の身に危険が降り掛かった場合であるとか、私にも想像はできる。

しかし、嫌だ、などといいながらも、私は自分の目の前にある生活や幸せを優先し、なんの行動も起こさずにいる。だから結局、私もまた人を殺すことを受け入れてしまっている……とは思いたくないけれど、「なにもしていない」ことにかわりはない。
それは死刑制度の話だけじゃない。いうまでもなく、私はすでに「生命の犠牲の上にある」。そして、そのことを忘れていたりもする。
ただ、そんなふうにさんざん繰り返してきたことを、常に目の前にあることを、自分を棚にあげた場所で「起こす」ということは、まったく次元が違う話だ。次元を違えることなんてできないのに、違えたつもりになっているということだ。なんなんだ、と考え出すと、それは結局自分に戻ってくる。だけど、それでも、
人間でも動物でも、生きているものは尊重されるべきだと思う。生まれてやることはひとつしかない。そのひとつは等しくひとつしかない。だから、「べき」って言葉は嫌いだけど、思う。それは「私」を尊重して欲しいと期待することでもある。

こういう「アーティスト」やその関係者にとって、全ては記号なんですよ
彼らはこうして既成概念を挑発してるんです たまげた話だろ でも本当なのよ
(略)
全てを同質な記号と捉えたら、あなたも記号になってしまう「あなたじゃなくて、他の誰でもいい」ってこと
http://hisamichi58.blogspot.com/2008/02/blog-post.html

ここで挙げられていることに、何を言おうとしても、すれ違うだろうなという気はする。ただ、それは本来、ルールではなく、個々に「期待」されているもののはずだ。この「場」からは自分を除外することはできないのだということを、どうにかして言葉にしてみたいけど、むずかしい。
殺すことがいけないという話じゃない。私が殺したくないのは、なぜだろうかという話だ。うまく言えないけど、
そうやって私はこれからも、自分の目の前にあるものを優先するだろう。図々しく、身勝手に生活するだろう。
ただそれが自分の目の前で起こったとき、自分はどうするだろうかということは、考えていたい。

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