ノーカントリー

コーエン兄弟の新作。
『ファーゴ』を映画館で見た時、ずっしりと重いものを抱えてしまったような気分で映画館を後にしたことをよく覚えているけれど、あれからずいぶん経ったせいか、その感覚の細かいところはずいぶん薄れてしまっていた。しかし、この『ノーカントリー』を見て、真っ先に思い出したのはあのときの「重さ」で、それを言葉にするならば「どうすればいいのかわからない」だと思う。
まず、この映画では「物語」を追ううえでの暗黙の了解、のようなものをあえて裏切るような展開がある。でもそういうことは現実では起こりうるし、だからこそ「事実は小説より奇なり」と言われるのだろう。後半になるにつれ、状況描写は省かれていくようになり、結果どうなったのか/なぜそのような行動をとったのか、などの説明はたぶん意図的に省かれている。思わず「そういうものだ」という台詞が浮かんだりもするけれど、それでもつい背後を確認したくなるような、「後味の悪さ」があって、その「空白」の存在感は『ゾディアック』を見たときの感覚に近いと思った。
この映画で描かれる “シガー” という男には、言葉が通用しないような気がする。映画の中で何人もの人が彼を「説得」しようとするけれど、言葉が彼の中で意味をなすことはない。しかも、それは言葉を発するチャンスのあったほんの一握りの人だけで、ほとんどの人は何のためらいもなく言葉を発するチャンスもなく、殺される。
シガーは恐い。でも彼と相対しているわけではない私からすると、その恐ろしさは、むしろ無力感なのではないかと思う。そして、この人をとめる方法があるとしたら、と考えてみて、浮かぶ答えがひとつしかないような気がしてしまうのも恐かった。
物語の序盤に、シガーが商店の店主に対して賭けをもちかける場面があった。

「もう店を閉めますから」
「閉店時間は何時だ?」
「いつもは日が暮れる頃です」
「俺は閉店時間を聞いてるんだ」
「今日はもう閉店ですよ」
「それを俺に言ってどうする?」
(記憶が少し曖昧なので正確じゃないですが)

というようなやりとりがあって、その後の賭けだった。この場面は見ていてほんとうに息が詰まるようだった。シガーは相手の言葉に影響されないで語る。そして、その影響されなさは、彼自身が「考えた結果に答えを出す」、ということをしないからなのではないか、と思えた。常に選択だけがあって、どちらを選ぶかは彼の気分だったり、コイントスによって決められたり、する。損得ですらない。その価値観が見えてこないからこそ、シガーは恐ろしい。
例えばシガーと相対したとき、自分には何もできないだろうということを考える。シガーが私を殺すかどうかも想像ができないから、どうすればいいのかわからなくなる。

ところで

事前情報ほとんどなしで見にいったので、『ノーカントリー』には原作があるということを今知りました(や、たぶんどこかで見てたんだろうけど)。『すべての美しい馬』の人なのか! 和訳(邦題は『血と暴力の国』)も文庫ででてるみたいなので、読んでみたいと思います。本屋いってくる。