ポニョ、その後

最近読み終えた物語に、「書かれたもの(書物)」と「書いたもの(著者)」の戦いが描かれていた。そして最後、書いたものが空白になって敗れるところで、最近ずっと考えていたポニョについての、何か言葉を見つけようとすればするほど言外の部分が寒天状に膨らんでいく感じ、を重ねようと思ったのだけど、そうやって言葉にした時点でやはり言葉にならない部分のほうが膨らんでいくのだった。
たぶん私は、誰かと一緒にポニョを見て、窓あけたら庭が海になっているとか、ポンポン船から見下ろす水中の見なれた町並みとか、お母さんの乱暴な運転の気持ち良さとか、でもそれに対してつい「危ない」とか思っちゃうなんて年とったもんだわねとか、でもわたしももし自分に子どもがいたなら、あんなふうにラーメン出したいなーとか、そういうハナシをしてみたかったような気がする。
千と千尋のときもそうだった。布団のしいてある大部屋を背景に見える海と、あの湯屋の建物にたいするあこがれについて、飽きるまで(主に妹と)話しまくったものだ。
わたしがポニョでとくに好きだと思ったのは、おかあさんがそうすけのいうことを疑ったり否定したりしないところだった。「ポニョはハムが好きなんだよー」というそうすけに、「あら、わたしみたいね」と返す母さんの気持ち良さ。そんなふうに、いいな、すてきだな、と思うところを思う存分話して満足したかったような気がする。
はじめにかいた「書かれたもの」「書いたもの」のたとえをポニョにどう当てはめればいいのかはわからないけれど、書かれたものはすでにあって、それをどう読むかには書かれたもの以上の広がりがあるのだと思う。そんなことをあらためて考えたりした。