トウキョウソナタ


監督:黒沢清
映画の冒頭、家の中に吹く風が奥行きをもって描かれ、窓から吹き込んだ雨を拭く女性の後ろ姿が、ふと窓の外を見て、一度閉めた窓をもう一度開く。それだけのことなのに、なぜか視界がゆるんだ。
物語で描かれるのは家族の不協和音だ。リストラされたことを家族に打ちあけられない父と、アメリカ軍に入ることをひとりで決めてしまう兄、担任教師とうまくいかない弟に、バラバラの家族のなかで宙に浮く母親。家族それぞれの見ている世界は噛み合ないまま、不協和音を鳴らし続ける。
その描き方は、かなり分かりやすくデフォルメされたものだったけれど、そこを直接的に描くことで、物語の強度は増していたように思う。
なんも、いいことなんてあると思えない。この先になにがあるっていうんだろう。ぜんぶ、なしにしてやりなおせたら。
その切実さが息苦しくなるところまで膨らんだところで、彼等はいったんその切っ先から逃れる。
母親はその逃れた先で「自分は1人しかいない」ということを話すのだけど、1人しかいないということ、それこそが彼等の息苦しさでもあるのだと思う。それと同時に、希望でもあるはずなのだけど。
「誰か、私をひっぱって」という映画の前半で母親がもらす独り言にあった「誰か」は、しんどいときに自分と何かをともにしてくれるはずの誰かなんじゃないだろうか。
映画を見てる間、その不協和音に目をそらしたくなることもあったけれど、最後に鳴らされる美しい和音は、それこそ希望の音に聞こえて、私はこの映画を見てよかったと思った。