時間と日記

いつでも今ここが結果で途中であるのはなんでなんだろうと思う。私は過去にもいれないし未来にもいないし、いまここの切断面に常にあるというのは考えてみれば不思議なことだ。
先日、以前の日記を読み返したりしていて、そこに書かれていることから私はその日にあったことを情景として思い浮かべることができるけれど、でもそこにはもういないということを考えていた。そこにはもういないということは、つまりいくら似ていたとしても、まったく同じ文章をまったく同じような心もちで書くことはできないということでもある。
でも、検索か何かでこの日記に飛んできた人にとっては、そのとき開いたページが今にあるのだろうし、だからもしかしたらこの文章が2年後にはじめて読まれることもまったくないとはいえないだろう。そして私はその2年後に向かって、文章を書くことはできるのかもしれない。
そんな風に、「私」の時間だけが直線上にあって、自分以外の人の時間と交差しているように感じるのは、もちろん錯覚なのだけど、
いつも日記は書かれている途中にあって、2年後にもきっと(ここがあるかどうかは別として)つながることができる。これを読み返すときの自分にも、その先があればいいのに、とか、そんなことを考えていると、時間が絡まっているような気分になる。
日記について考えるのはたのしい。