日記日記

≪わたし≫なんてものはただの歴史家にすぎない。昔ふうに言うなら一介の筆耕にすぎない。動きを生むのは命なんだ。ベッドにいる病人には、まだ「ぼくは起きる」という力は残っているだろう、しかし実際は起きあがる力なんてありはしないんだ。とするなら、起きると口にした≪わたし≫と、身体を起こすことのできない≪わたし≫の、どちらが本当の≪わたし≫なのか。

これは堀江敏幸「回送電車」というエッセイ集の中で紹介されていた、ブリス・パラン「ジョセフ」という小説の一節だ。ブリス・パランという人の名前ははじめて知ったのだけど、検索してみるとフランスの哲学者で「女と男のいる舗道」に出演したりもしてた人みたい。
「ジョセフ」は、堀江さんの解説を読む限りでは、夫婦の齟齬について描かれた物語とのことなので、引用文は、つまらない言い方になるけれども「できない約束は口にしたくない」ということなのではないかと思える。だとしても、この一節はとても魅力的な言いまわしだ。
今朝、通勤電車の中でこの部分を読んでいて、日記を書くときの世界が二重になる感じももしかしたらここにあるのではないかと思った。
仮に「わたしは今日会社に行き、帰りに西友に寄って帰宅した」と書いてみたところで、それを書く「わたし」と西友に行った「わたし」は重なっているのだろうか。
たぶん、言葉では常に切断面にある「わたし」を語ることはできない。「いつでも今ここが結果で途中である」ということを先日書いたけれど、「わたし」という言葉の特殊なことに、改めて気づかされるような気がした。
そこで改めて『私が世界をどのように見たか、を報告したい』*1という言葉のことを思い、そこに描かれる世界こそが逆説的に「動き」を語ることにはならないだろうか…ということを考えていた。動き、というのは多分、次の一歩のことだ。
そして、日記を書き終えた瞬間の、意識が今日から今に移る感じは、それに近いんじゃないか…とか思ったりもしたのだけど、頭が混乱してきたので続きはまた今度。

*1:ヴィトゲンシュタイン『草稿一九一四 - 一九一六』