小説家

以前、教えてもらった保坂和志さんのインタビューを読んで、小説家であるとはなんて心細いことなんだろうと思った。
「とにかく小説家は小説を書いて成長するし、小説を書くことで人生の時間を生きていく。」「この不安だけが正しいんだという意味では僕は確固としていますね。」*1と語るその心持のことを想像するときの感じと、ちょっと飛躍するけれど、「RIN」*2のように“天才”が描かれる物語を読んでいて感じる“遠さ”は少し似ている。
「天才」という言葉を使うのは、生きてる人を神様というくらいなんだかちょっと抵抗があるのだけど、天才とはそのように、別の場所に生きているように感じられる人のことをいうのかもしれない。
そして私は身勝手なことに、「天才」という言葉を思い浮かべるたびになぜか、ふと穴に落ちたような、漠然とした寂しさを感じるのだった。

でもそれは、「天才」の本来の意味であるはずの才能についてではなく、心細さを持ち続けるということを、改めて意識するからなんだな、ということを昨日、あの村上春樹のスピーチを読み、動画を見ながら考えていた。
中学生のとき、国語総覧で顔写真を見て、イメージとだいぶ違うな…と思って以来、村上春樹が「動いている」のを見たのは初めてだったから、その内容以前に、ああこの人はちゃんといるんだな、なんて感じたりもしたんだけど、
スピーチの中に、「小説家というのは、自分の目でみたものしか信じない」という言葉がでてきたのを読んで、それが心細さを持ち続けるということであり、不安を信じるということなのかもしれない、と思った。
そして、「天才」、という言葉がどこか寂しく感じられたのは、天才がどこか別の場所に生きている相手だからではなく、その言葉が、すべての私は孤立しているということを思い出させるからなのかもしれない。見て、考えるのは「私」だ。

なんだか話が飛躍しているけれど、自分がずっと好きだった小説家だから、という贔屓目もあるにせよ、村上春樹があのスピーチをした、ということにはかなりぐっときてしまって、昨日も今日もそのことばかり考えている。
保坂さんを引き合いに出したのには連想以外の意味はないのだけど、そういえばちょっと顔が似てるような気もしないでもない。