じゃがいもの煮物

近所の八百屋で買ったじゃがいもがすばらしくおいしかったので、ジャガイモばっかりの煮物を作ろうと思いつき、台所に立っていたのはもう21時すぎ。皮の薄い新じゃがだから、丁寧に洗えば皮のままでもいいかもな、とか、考えてたところに電話が鳴って、出ると懐かしい声がした。久しぶりだった。
ようやく長い仕事が終わったとこで、だから飲もうよ、あと30分くらいで駅着くんだけどとか云々、きっと繁華街にいるんだろう、電話から耳離しても聴こえるくらいの大声だった。煮物が煮えたらいくよ、と答えたのが聴こえてたのかどうかはわかんないけど、再び連絡がきたのは、鍋の中がいい頃合いになり、後は火をとめて味がしみるのを待てばいいか、って絶妙なタイミングだった。
駅まで5分。自転車で向かうと、TとSはすでにちょっと飲んでるみたいな顔して並んで立っていた。その姿がなんだかしかられた小学生みたいでちょっとおかしい。

そんなふうに、仕事に入ると長い事音信不通になり、終ると連絡が来る、まるで船乗りのような友人が何人かいるのだけれど、仕事明けの彼らと会うたびに、なんかちょっと焦るというか、自分がここにいていーのかなみたいな気分になる。半年なら半年、1年なら1年の、密度が全然違うのが手に取るようにわかる。なんて、つい無責任なあこがれを垂れながしそうで、思わず走って逃げたくなる。ような気がすることもある。
それと同時に、いつか話した「蛙が降ってくるのを待ち望むような気持ち」っていうのは、別に、他力本願とか偶然とかそういうんじゃないんだよなってことを改めて確認できたりもして、
降ってくるかどうかは自分でどうこうできないスイッチみたいなものだけど、失敗だとか成功だとか、結果がわかってたってきっと結果を見るまでやりたい。それがどんなにくだらないことでも、やりたいことは、ちょっとでもうまく、よくなりたい。
とか、大人になったらこんな話はしないのかと思ってたけど、意外と切実だったりもして、いつのまにかもういい時間。

TとSと別れ、自転車を回収して少し遠回りして帰る。夜はまだつめたくて、風が目にしみた。大通りをぐるっと迂回して、住宅街を抜けて帰る。まっすぐ漕ぐ。歩いているときと違って、自転車に乗っているときに思い浮かぶことって、すぐ飛んでっちゃうような気がする。
帰宅して、鍋の中のジャガイモをひとつ食べてみると、しっとりしたなかなかの煮え具合だった。味もほどよくなじんでいて、すこしうれしくなった。