好き嫌い

最近、ピーマンをよく食べている。ピーマン料理ってまだあんまり思いつけないのだけど、長らく疎遠だったせいか、今はいろんな味で食べてみるだけで楽しい。細く切りたいときは、つやつやした表側ではなく裏側からの方が切りやすいことを覚えたし、自分は火を入れすぎない方が好きみたいだということもわかった。
逆に、火を通しすぎるとまだちょっと苦手とか、意外と味が薄いこととかにも気づいて、つまり好きという気持ちは、もう一回、とか、あとちょっと、とか「確認したい」に似ているのかもしれないなと思った。

その反面、嫌いなもののこと考えるのは難しくて、なかなか頭がしずまないプールみたいだ。
例えば、ちょっと腹が立ったこととかについて何か言おうと思うとき、ためらう理由のほとんどは、それについてたいして知らないからだったりする。
ただ、そこでためらうのはこういうとこで何か書こうとするときのことだから、実際はビールでも飲みながらあれこれ話して「こころせまいなあ」とか笑ってもらえたら、それですっきりするような気もするんだけど、
でも、そんな“ひっかかり”を晴らしてくれるような文章を読むたびに、それを自分で考えるのが難しいのは、結局自分に返ってくるからなんだなと思う。

「好き」というのも「良い」というのも、それを相手に伝えるということは結局、相手に、私がなにを良しとするのかを伝えることだ*1、と前に書いたことがあったけれど、それは「嫌い」の場合も同じことだ。
なので、ビールと一緒にすっきりできてしまうようなことについては、その程度ってことなのだと思うけど、それでも残ることについては、とりあえず「どうでもいい」ではないんだから、もやもやしてないでもっとちゃんと考えようと思った。

小学校の授業でやった、プール中に撒かれたいろんな色の何かを拾うゲームみたいに、手が届かないときはいらいらするんだけど、何か拾えたらちょっと嬉しいかもしれない。