「1Q84」book1、2/村上春樹

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

ようやく読み終えました。ずいぶん長い時間をかけて読んだような気がするけれど、book2に入ってからは早かった。
まだ誰の感想も見聞きしていないし、ついさっき読み終わったばかりなので、しばらくしたら印象はかわるかもしれないけれど、
とりあえずこの「1Q84」は、これまでの村上春樹作品の中で、もっとも「村上春樹」という作者を意識させる物語だった気がする。物語のはしばしに、これまでの作品の手触りがあって、しかもそれがうまく物語に含まれていると思った。「海辺のカフカ」あたりでは違和感のあった三人称もようやく馴染んだように感じる。
物語に関して言えば、ねじまき鳥くらいまでの親密な空気が好みなのだけど、村上春樹の作品を読むことの楽しさは、なによりもところどころで立ち止まって考えることができる素材となるところなのだ、とも思う。
これまでにも少しこの作品を読みながら考えたことを書いたけれど、そのどちらもほとんど個人的な事柄で、そこが、村上春樹作品が好きでも、人におすすめしたくなるのとはちょっと違う理由なのかなと思う。

以下少し内容について。
1Q84」は明らかに「アンダーグラウンド」や「約束された場所で」と地続きにあり、年月をかけて咀嚼されたものがあらためてこのような形になった作品だと思う。
物語の舞台となる“1Q84年”は、スイッチの切り替わってしまった世界として描かれ、重要なモチーフとなる“リトルピープル”については、たぶん、集団心理のようなものかなーと思いつつ読みました。なんて、言葉にしてしまうと一気に限定されてしまうけれど、澱のようなものがたまり、やがて空気さなぎになる、というようなイメージ。もっとも、物語中にあるように、「説明されていないということは説明されてもわからない」ものなのかもしれないけれど。
ともかく「1Q84」は明確に、個人的な物語よりも、外側の物語に重心がおかれているような気がした。

個人的な物語としての印象は「国境の南、太陽の西」に近いと思います。手元にないので引用できないのだけど、読みながらずっと、天吾と青豆の関係に島本さんと僕の関係を重ねてしまっていた。
そして私はそういえば、あの話があんまり好きじゃなかったなーということを思う。「1Q84」も、正直言って物語自体はあんまり好きじゃない。でも読みたいと思うのは、好きな部分でつながれているからなんだとも思う。

以下余談ですが、

「わかりました。とにかくあなたは何かの空白を埋めている」と天吾は言った。「じゃあ、あなたが残した空白をかわりに埋めるのは誰なんでしょう」
「あんただ」と父親は簡潔に言った。そして人差し指を上げて天吾をまっすぐ、力強く指差した。「そんなこときまっているじゃないか。だれかのつくった空白をこの私が埋めてきた。そのかわりに私がつくった空白をあんたが埋めていく。回り持ちのようなものだ」p182

この部分を読んで嬉しくなったのは、マーク・ストランド「犬の人生」のあとがきに村上春樹が引用していた詩がモチーフなんだろうなと思ったからだし、そこにあった

この部屋の中にも、この世界のどこにももう、彼の作り出す欠落はない。この先二度とそれが生まれることもない。(略)しかし僕らは彼の作りだしたそれらの欠落を、今でもはっきりと記憶しているし、それらはこれからも多くの人々によって記憶され続けることだろう。何故なら、それらの欠落は、僕らの作り出す欠落を、それらにしかできないやり方で癒してくれるからだ。(p210)

という、レイモンド・カーヴァーについて書かれた一文が私はとても好きだったからだ。
この一文をイメージするかどうかで、上に引用した父親の言葉はずいぶんイメージが違うような気もするけれど、
ここで「私が死んでもかわりはいるもの」という台詞に対する新しいシンジ君を思い出してしまったのは「破」をみたばかりだからかもしれません。
何より、ふかえりに綾波がだぶってしまったのは私だけじゃないと思う…!