カナダのニンジン

スーパーで売ってた人参がきれいだったので買った。千切りにして塩もみしてごま油と七味かけて食べようと思う。
私が生で食べる人参を好きになったのは、中学生の頃、カナダに短期留学していたときのことで、ホームステイ先の家の夫妻は、自宅では常に自家製コーラ製造機でコーラを飲んでおり、野菜はほぼ生食であり、晩ご飯は紙皿に盛られた出来合いの中華料理だった。
私に与えられた部屋は地下室で、その日当たりの悪さに若干不安になったものの、部屋にはピアノがあって、当時ピアノを習っていた私は暗譜していた数少ない曲を披露し、それを夫妻がほめてくれたので嬉しかったイメージ。あれはちょっとお近づきになれたと思った瞬間だった。
そんな具合で、夫妻と私は約2週間一緒に暮らした。
日中、私は学校に通い、帰宅して中華料理を食べ、夜はたいていアメリカンフットボールの試合だかラグビーの試合だかをTVで見た。彼らはコーラを飲み、炭酸が苦手な私は柔軟剤みたいなデザインのボトルに入ったオレンジジュースを飲んだ。
日曜には教会に行って、スーパーで大入りのポテトチップスを買い(日本のポテトチップスの5倍くらいの大きさだった)、公園でそれを食べたりもした。黒くて大きなナメクジがいて、ヒルと勘違いして大騒ぎしたような気もする。

ある日の夜、夫妻は私を呼び、深刻な顔で何かを話し始めた。手を握られて、私はたぶん戸惑った顔をしていたと思う。実はそれまでずっと、彼らの話すことの半分以上を理解していなかった私に、ややこしい話が理解できるはずもなかった。
でもその深刻な様子に気圧されて、なんとなく「オーケー」と言うと、彼らはほっとした顔をした。そして私たちは、それぞれの部屋に戻って眠った。
翌朝、彼らは再び私の手を握り、それぞれ私の頬にキスをして、「goodbye」と言った。私は何か変だなと思いつつ、バーイ、なんつってバスに乗り込み、いつも通り授業を受けた。
そして帰宅すると、彼らはいなくなっていた。

後は大人の話になってよくわからなかったのだけど、私は同行していた友達のホームステイ先に預けられ、残りの日数を過ごすことになった。
新しいホストファミリーには、かわいい子どもたちがいて、皆でディズニー映画も見たし、庭のトランポリンで遊んだりもした。晩ご飯は皆で作り、たっぷり時間をかけて食べた。
正直、とても楽しかった。彼らの話す英語はわかりやすかったし、子どもたちがいることでコミュニケーションもとりやすかった。

しかし帰国する飛行機の中で考えていたのは、私はなんで、あの夜彼らの言っていることを何も理解できなかったのだろうかということだった。
コーラと生野菜と中華料理ばかりの日々だったけど、彼らは彼らで私によくしてくれたし、お互いに理解した部分もあったはずだ。それを適当なオーケーで流して、彼らを悪者にしてしまった。
新しいホストファミリーは私のことをかわいそうだと言ったし、引率の先生にもなぜか謝られた。日本で待つ両親にも心配されていた。
でも、というのは申し訳なくて言えなかったのだけど、未だに生の人参を食べるときは、あの小さな白っぽい家のことを思い出す。
いつだったか、コーラばっかり飲むのは健康によくないと思う、というのをたどたどしい英語で言った時、生野菜食べてれば大丈夫、と笑っていたあの夫妻に、もしもまた会うことがあったなら、出来合いの中華料理ばかり食べるのもあまり健康にはよくないと思うと言いたい。
そして、おかげさまで生で食べる人参が好物になりましたと言いたい。なんて思いつつ、今日は人参サラダを食べました。