耳をすます

初めてできた彼女と初めて一緒に出かけた日に近所の銭湯の煙突が倒れた話、というのが先輩の持ちネタで、私はそれを聴くのがとても好きだった。
ファミレスでご飯を食べていたら、大きな音がして煙突が倒れ、電線が切れたのかいきなり停電して、焦って下心もふっとんだよねとかそんな話。
何度も繰りかえし話してもらったので、その風景はもう私の中に記憶としてあって、先輩と彼女がいるはずのファミレスの席でひとり、いつまでも窓の外の煙突を眺めている。

今朝、その先輩がでてくる夢をみた。改札の先に、白い、やけに丈の短いズボンをはいているひとがいるな、と思ったのが先輩だった。もう10年以上会っていないというのに、大学の頃そのままの様子で「いま国分寺に住んでるんだっけ?」と声をかけてくる。ついでに背中を掴まれた猫のようなポーズ。
私は苦笑して、「違いますよ」答え「お久しぶりです」と深く頭を下げた。
10年ぶりだってさ、ということになんだか気が遠くなって、そそくさとその場を後にしようとしたところで、揺れて目が覚めた。
しばらく耳をすませてから、起きる。

桜の開花宣言があった日*1から、日ごとに暖かくなっているような気がする。コートを手にかけて歩きながら、花の咲いた木を見かけては寄って、桜かどうか確認してしまう。
考えてみれば、同じ花の咲き加減にこれほど多くの人が注目し、喜び、意味を見出したり、散っていくことを惜しんだりする国は珍しいんじゃないだろうか。
でも、そんなニュースを聞いたり、花の開いた枝を人が囲んでいるの見たりするのはなんだか嬉しいし、私もやっぱり、桜が咲くのを楽しみにしている。


帰り道、不意に炭酸が飲みたくなり、三ツ矢サイダーを買って飲みながら帰った。まだマフラーをしているけれど、いつの間にか吐く息は白くないし、湿り気のある空気のにおいは、春だと思った。