優柔不断の仕組み

じゃあやればいいんじゃないですか、と言われて何も言い返せなかった。思い切りの悪いことには私の中で定評がある私だけども、これまで生きてきた中で数回くらいは、思い切りのよかった出来事もあったはず。なんて過去の栄光にすがりつつ、でもこればっかりはさぁ、と何度も思い浮かべては停止ボタンを押し続けてきたプランの、背表紙だけをちらりと見る。そこにあることは、もうずいぶん前からわかっていた。
わかっていたけれど手に取らずに過ごしてきた。だってさぁ、の先に出る言葉もいつも同じだ。それなら私は何を期待してその悩みを口にしたのだろうかと思う。そんなのはわかりきっていて、要するに自分でできない判断を、誰かに委ねたかったのだ。さらにあわよくば、それが成功するほうにベットして欲しかった。でもそれは自分にはそれが出来ないからであり、失敗するくらいなら、棚にしまっておくことを選んだ方がいいと思っていることの証左でもある。
そして、やればいいんじゃないですか、はどういう意味なのかといえば、とっとと白黒つけろという意味であり、それができたら悩まないよということで振り出しに戻る。
ただ、そんなどうしようもない優柔不断でも、死ぬまでにもう一度くらいは思い切りよくなれるかもしれないという可能性にかけて、「じゃあやればいいんじゃないですか」と声をかけつづける。