スリー・ビルボード

「スリービルボード」を見たのは夜行バスに乗る直前だった。
仕事を終えた金曜日の夜、20時頃から映画を見て、23時のバスに乗る。そんな日に見るのにうってつけの映画だったような気がする。
物語は、ミズーリ州のある田舎町を舞台に描かれる。娘を殺された母親ミルドレッドが、遅々として進展しないその犯人探しに業を煮やし、寂れた道沿いに立つ3つの広告看板(ビルボード)を借り受け、あるメッセージを出す、というお話。
ミルドレッドは決して悲劇の主人公ではないし、いわゆる「善人」として描かれてもいない。彼女自身も自らの瑕疵を理解しているからこその、行き場のない怒りのようなものがくすぶっていてたまらない気持ちになった。
人に疎ましがられ、孤立してもなお、自分を曲げない彼女に対して、もっといいやり方があるのでは、なんて思いが湧いたりもした。
結果的に物事はかなり悪い方向へと転がっていくのだけど、見終わって感じたのは、世の中には思うさま転がり壁にぶつかって少し壊れてみないと止まらないことっていうのもあるのかもしれない、ということだった。
この物語には、どうすれば「よりよかった」のか、なんて解決策は残されていない。でも「かなり悪い」が「悪い」くらいになる方法はたぶんあって、それはこの先の未来にかかっているのだと思った。
皆それぞれに事情があり、積み重ねてきた時間があり、だからこそ簡単に変わることなどできない。ただ、現在は差別主義者で人々から煙たがられている彼も、生まれながらの悪人なわけではないのだということを教えてくれるような映画だった。
何も解決しているわけではないのに、風に吹かれるようなラストの開放感もとても魅力的で、
高速バスの車窓を流れるオレンジの街灯を眺めながら、少しだけあの映画の続きにいるような気持ちになった。