『掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン作品集』

この本を読むのは、なんだかすごく心地が良くて、少しずつ大切に読んだ。
発売してすぐに開催された、翻訳者である岸本佐知子さんと山崎まどかさんのトークショーにも行き、そこでルシア・ベルリンは、自分の体験をもとにした作品を多く書いた作家であるということを知った。
読み進めていくと、この物語に出てくるこの人は、別の短編に出てくるあの人のことだな、とわかる瞬間がある。いくつもある。
そこに描かれる、掃除婦として働く日々、幼馴染との別れ、末期ガンの妹との会話、アルコール依存症の日々、引越しの多い子ども時代と理不尽な大人たち。
それらを時系列に並べていくことに意味はないだろう。これはエッセイでもドキュメンタリーでもないことは読んでいればすぐにわかる。
すべての文章は、時系列から解き放たれ、作者の手によってあるべき形に編集されている。

けれど、語弊を恐れずに言えば、私はこのような記憶の取り出し方を、自分も知っているように感じた。それはもちろん、作者がそう思わせるのだ。記憶というのはこのように、時系列を無視して脳内に日々陰影を描き出しているものだと。

ささくれを引き抜くように、毛玉を吐き出すように、切り出された記憶を物語にして植樹するような、宙に放るような、物語の描き方を想像する。
それが実際にルシア・ベルリンのとった方法かどうかはわからないけれど、きっとそのようにして描かれたはずだ「私にはわかる」なんて言いたくなる親密さがこの本にはあって、
なるほどトークショーで繰り返し「おれたちのルシア」と語られていた感覚はこれなのかな、と思ったりもした。

そんなふうに、この本を読んでいると、彼女の記憶に、彼女の目を通して触れているような心地がする。

ただ、『さあ土曜日だ』という短編については少し書かれ方が異なっているように感じた。
ある刑務所で行われている「文章のクラス」の物語で、語り手が文章を読み、書くことの楽しさを受け入れていく様が、我がことのように嬉しい。

「文章を書くとき、よく『本当のことを書きなさい』なんて言うでしょ。でもね、ほんとは嘘を書くほうが難しいの」/p248

この短編に限って言えば、視点がルシアの1人称ではないのだけれど、だからこそ本当の部分がはっきりと浮き彫りになっているように感じた。
そこに書かれていることと、意図的に書かれていないこと。

何を書くか、書かないか。それを自分で決めることこそがプライドであり、自由なのだ。