入院日記/『あした死ぬには、』の本奈さんと私

入院する直前、『あした死ぬには、』(雁須磨子)の最終話が公開されて、それがなんと主人公の本奈さんの入院回だった。
雁須磨子さんは新刊が出たら必ず買うくらい好きなのだが、中でも『あした死ぬには、』は自分と同世代の話だし、ということで特に思い入れのあった漫画で、
その最終回が入院回、しかも私と同じようにおそらく初めての全身麻酔での手術をする話……ということで「やはりこの漫画は”私たち”の漫画だ~!」なんて心強く思っていた。
そして、その本奈さんのエピソードは自分にとって「初めて手術を受けるにあたって目にした最新の体験談」となり、当日の朝も私は『あした死ぬには、』のことを考えていたのだった。

前回 入院日記/コロナ禍の入院 - イチニクス遊覧日記

タイムリープ体験

手術日の朝8時頃、主治医が点滴用の針を準備しにきた。
点滴自体初めてだったのだが、蛇口のように針だけ設置しておいて、そこに点滴の管を装着する形で使うらしい。
腕に設置しようとしたがうまくいかず、結局手の甲になる。
その後、点滴を接続しにきた看護師さんが「手の甲になっちゃったんだ!」というので聞くと、手の甲は結構痛いのでできれば避ける場所なのだとのこと。確かに点滴がつくと、管の重みで引っ張られる感じがあって少々痛い。点滴の袋が、ドラマなどでよく見るキャスター付きのスタンドに吊り下げられるのをみて、本物だ、と思う。

12時少し前、手術の準備ができたと看護師さんが迎えにきて、病室を出たところで母親に会った。
コロナの都合で面会は禁止されていたのだけれど、手術前だけは会える時間があるとのことで、来てくれたのだった。
点滴スタンドをひきながら、手術室までの渡り廊下を歩く。外の天気はどう、というような話をしたような気がする。意外な天気だった気がするけれど、それが暑かったのか、雨だったのかよく覚えていない。要するに、少々動転していて、それを隠すために天気の話をしていたんだと思う。
手術室までは1分もかからない距離で、ドアの前で終わったら連絡するねと手を振って別れた。

バックヤードのようなエリアを通り、手術室に入ると、思いのほかたくさんの人がいた。
ベッドに寝るように言われる。思ったより位置が高い。寝転がると、テキパキと全身のあちこちにいろんな器具が取り付けられていく。
驚いたのはつけていた不織布マスクの上にそのまま酸素マスクを装着されたことだ。
「前開きます」「冷たいですよ~」「足に器具つけるので靴下ちょっとめくります」「眩しいですか?」などといろんな人がほぼ同時に私に話しかけてきて、なんかすごい賑やかなんですけど一人一人お願いします………

………と思った次の瞬間「手術終わりましたよ~」と声がかかった。

本奈さんのやつと同じだった。
完全なタイムリープ体験に驚いたまま、ベッドごと薄暗い個室のようなところに移動して、そういえば手術後3時間程度SICUに入ると言われていたのを思い出す。今15時…ってことは3時間も手術してたのか。

ベッドを運んできてくれた看護師さんに「今の痛みの度合い、10段階でどのくらいですか?」と聞かれる。0は痛くない、5は普通、10は痛い、だと思ったので「7?」と答えると、そんなに痛いですか?と驚かれる。「10は泣いちゃうくらい痛い感じですけど…」と言われ、それなら4かな?と答える。
30分くらい経ったところで、母親が部屋に入ってきた。まさか今日もう一度会える機会があると思わなかったので驚く。主治医の先生からうまくいったと説明を受けたとのことで、母親もホッとした顔をしていたように思う。

話をしたのは10分くらいだっただろうか。
ここからの数時間がめちゃくちゃ長かった。うとうとして目が覚めても15分も経っていない。
そして誰もいない。手にナースコールのボタンを握らされているが誰もいない。
枕元に窓があるのか、蝉の声が聞こえてきて、入院前にみた甲子園の、近江高校の応援歌が頭をぐるぐる回り出す。今日の主役は誰ですか~という掛け声のやつだ。
時計は一時停止ボタンでも押されてるのかなというくらいビクともしない。
寝るしかないと思うが、またすぐ目がさめる。

とにかく早くここから出たい…と思い続けて3時間が経った頃、看護師さんがやってきて、歩けることを確認し、晴れて病室に戻れることになった。


痛みの段階

ベッドごと病室に戻る。看護師さんがすぐに「スマホ入りますよね」と引き出しから出してくれて優しい。
家族と友達にLINEをしたりして、うとうとしたり、「ヤコとポコ」の続きを読んだりする。スマホを使うと点滴の部分が痛かったが、明日にはとれるとのことなのであと少しの辛抱だ。
友人が送ってくれた過去の手術体験記でもICU精神と時の部屋と例えていて*1みんなそう思うんだなと笑った。


消灯前に再び、痛みは10段階でいくつですかと聞かれ、ICUにいた時よりは良くなってることを伝えたく「3」と答える。
ちなみにこの痛みの段階報告、この時点では3でよかったのだが、この後1週間以上にわたってこの質問をされるにあたり「良くなって入るが0ではない」を表現するのが難しく、退院間際には「1.5?」「きざみますね~」みたいな感じになっていくのだった。

この日の夜は2時間おきに看護師さんが傷口を確認しにきてくれて頭が下がる。喉が痛くてちょっと不安になるが、隣のベッドからも咳き込む声が聞こえてきて、多分手術後はこういうものなんだな、と思う。

翌朝は6時前に目が覚めた。めちゃくちゃお腹が空いている。入院日の夕食以来何も食べていないのだから当然だが、正常にお腹が空いていることにホッとする。
8時頃に到着した30時間ぶりくらいの食事は食パンとクリームシチューだった。

ところでこれを書いている今日『あした死ぬには、』の最終巻が発売されたのだが、
再び本奈さんの入院の様子を「そうそうわかる」と思いながら読んでいたら、本奈さんの手術明けの食事も、食パンであることに気がついて、なんだかちょっと嬉しかった。

その後、入院前にDLしたものの、明るい話ではないということは聞いていたのでなかなか食指が動かずにいた芥川賞受賞作「おいしいごはんが食べられますように」を読む。
SICUにいた時ふと、「あっいまあれ読む感じだな」と思ったのだ。
本を読むための推進力みたいなものっていつどこでわいてくるかわからないので面白い。
案の定、登場人物に腹を立てる。そのくらい気分が軽くなっていた。

*1:精神と時の部屋は、外部より時間の流れが「速い」空間なので逆ではあるんだけど、時の流れが変になる部屋ということで…

入院日記/コロナ禍の入院

先日、生まれて初めての入院&手術を経験した。
8月の半ばの、すでにひと月以上前の話だ。
最近サボり気味とはいえ、長らく日記を書いてきたにも関わらず、なぜ今頃になって書いているのかというと、たぶん自分にとって文章にするというのは「定着」の作業に近いからなのだと思う。
退院しても、術後の検査(腫瘍を取る手術だったのでその病理検査があった)が終わるまでは判断保留な気がしていて、状況を定着させて次に行く気になれなかった。

つまり、今こうして日記を書く気になれているのは、術後の検査も終わり、ひとまずは安心して良い状況になれたということでもある。(よかった)


病気が見つかったとき、まず思ったのは「不摂生をしていなくてもなるときはなる」ということでした。
一方、早期発見できたことで「具合が悪くなる」というターンを経ずに治療ができたのはありがたいことでもあり、
なので、最初に書いておきたい結論はやはり「健康診断大事!」という事です。
そして、なんか気になるけど次の健康診断がまだ先…という時は、待たずに行くのが良いと思う。よろしくお願いします。


以下、忘れないうちに入院時のことを記録しておきたいと思います。


コロナ禍に入院するということ

入院にともないひと月ほど仕事を休むつもりだったので、それなりに忙しくしていた7月、半ばになって不意に新型コロナウイルス感染症の第7波が押し寄せてきた。
社内にも感染者が出る。薬局で発熱外来に繋がらないと相談している女性と出くわす。電車内のどこからか咳き込む声が聞こえてくる。感染者数は雪だるま式に増加し、アプリを起動させたまま長らく沈黙していたcocoaすら初の通知を送ってきた。
ここまでの2年半、ちゃんと予防対策をしてればある程度は大丈夫……という漠然とした自信があった自分も、今回ばかりは防ぎ切れないのではないかと弱気になってくる。

そして7月末、入院前最後の検査日に「入院日はまずPCRを受けてもらってからの入院となります」と聞かされた(そりゃ当然そうなのだが)。
恐る恐る「もしそこで陽性だったらどうなるんですか」と聞くと「その日は入院せず、再度日程の組み直しになります」とのこと。さらに「最近そういうケース増えてますね」とも付け加えられる。

仕事を片付け、文鳥を預け(これは無事最適なところに預けることができたのだけど)、荷造りをして病院を訪れるとこまでたどり着いたのにそのまま帰宅するなんて最悪だ。

そこからは毎日が「果たして予定通り入院できるのか?」という不安との戦いだった。
日に日に感染者数が増えていく一方、仕事の算段をつけるために出社日も増える。当日陽性がでたらこの準備も全部水の泡……という想像からどうにか目をそらしつつ、外食(それまで1人では割と外食していた/読書目的の喫茶店も含む)もせず、満員電車に乗り込み、目が覚めるたびに体調に耳をすませるという日々が続いた。

入院日

そんな入院前がとにかく辛かったため、入院当日、トランクを引きずりながらPCR検査を受け、待機の後「陰性でしたよ」ときいた瞬間、なんかもう一仕事終えたような開放感だった。久しぶりに深呼吸した気がした。
病室に着いたのは10時頃で、気が抜けたまま運ばれてきた「入院患者用の昼ごはん」を食べた。
PCRにはいろんな人が並んでいた。松葉杖をついている人、妊婦さん、老人、子ども、そして私。味の薄い味噌汁を飲みながら、みんな無事陰性だっただろうか、と思った。

昼食の間に、続々と陰性結果のでたルームメイトが到着し始める。
病室は4人部屋だった。コロナ対策で常にカーテンを引くように言われていたため、このルームメイト達と顔見知りになることは最後までなかったけれど、看護師さんたちの問診の様子は筒抜けであるため、互いの術後の経過をうっすらと把握し合うことで、なんとなくの連帯感は生まれていたような気がする。

昼食を終えると、今度は翌日の手術の案内がはじまった。
そう、手術は入院翌日を予定していた。
ここまでコロナのことばかり考えていて、初めての手術という点については完全に意識の外にあった。これはまあ緊張しないで済んだという意味で、良いことでもあったんだろうなと思うけど、「もしかして、覚悟完了してないかも?」なんて動揺しはじめたところで消灯時間(21時)がきた。
普段は23時以降に寝るのでまだ全然眠くない。
この日のために大量にDLしてきた電子書籍(漫画含む)の中から、「ヤコとポコ」の続きを選んで読み始めると、なんだかポコのいじらしさが預けてきた文鳥に重なってしまい切なくなってきて、「メダリスト」の再読に切り替える。

向かいのベッドには私と同じく明日手術を予定している、おそらく中学生と思われる女の子がいて、時折彼女のすすり泣きとLINEの送信音が2枚のカーテン越しに聞こえてきた。
私も、彼女も、そして隣のベッドに寝ている大学生くらいの女の子も(残りひとつのベッドは空いていた)、みんな明日が手術のようだった。
うまくいきますようにと思う。

何度かスマホを切ってみるがなかなか眠れず、睡魔がやってきたのは結局「メダリスト」再読6巻の頃だった。

緩やかな衰退

先日、下北沢に行ったら、見知っていたはずの風景が様変わりしていて驚いた。
通っている美容室があるので、街自体は久しぶりではないのだけれど、その日は時間があったので、好きな喫茶店に寄ってから行こうとかつての北口に向かったのだ。すると、曲がるはずの道沿いのビルが一つ取り壊されていて、一瞬どこにいるのかわからないくらいだった。

立ち止まって四方を確認してみると、おぼろげながらそこにあった建物の様子を思い出すことができた。
確かに古い建物だった。
いつ潰れてもおかしくないようなかばん屋さんが1階にあり、確か高校生の頃、そこで夏用のかごを買ったことがあった。使わなくなって以降は、実家の台所でスーパーのビニール袋をためておくかごとして使われていたはずだ。親はなかなか物を捨てないタイプなので、今もどこかにあるかもしれない。

しかしその実家だって、私がふとした折に思い出すのはリフォームする前の、今はなき実家なのだった。

自分はながらく、古い景色に魅力を感じてきた。
歴史的建造物とかそういうのではなく(それも素敵だけど)、生活の中にある、長く使われてきた古いものに惹かれることが多かった。
特に商業施設や飲食店が好きだ。大理石の階段と鈍い金色の滑り止めとか、大勢が手を滑らせたであろう木製の手すりの艶とか、はめ殺しの窓の重厚感、磨りガラスの、よくぞその繊細さで何十年もと褒めたたえたくなる佇まいとか、間口の小ささ、補修されたタイル、店先に置かれた植物の躍動、看板に使われているフォントの懐かしさとか、
そういった積み重ねてきた時間が今ここに詰まっているような景色が好きなのだけど、
近年、というかこのコロナ禍においては、そういった場所が急速に失われていっているのを感じる。

客足が遠のいて、というのはもちろんありつつ、高齢化した店主が店を閉める最後の一押しになっていたりとか、建物の老朽化であったりとか、理由は様々なようで、ある程度は重なっているのだと思う。
つまり、多くはコロナ前のペースでヒトが活動している状態ではキープできていたものが、ヒトの流れが減ったことで維持できなくなってしまった。
そして、「コロナ前」に戻そうというのも、もう無理があるような気がする。

戻れないということは、必ずしも悪いことではないし、いずれ、新しい規模でできることを考えることにシフトしていくように思う。

だから、失われていくものすべてを引き止めたいというのとは違うのだけど、
ただ、そこにはどう終わるのかを考える余地はあってほしいと思うし、そこに特別なものがあったということを、自分はそれをどう見ていたのかということを、誰にというわけではなくても残すことをしたいなと最近は考えている。

人質の朗読会

人質の朗読会」という本を読んだ。
ある国で、日本人旅行客たちがツアーバスごと反政府兵士に誘拐される。やがて事件は悲劇的な結末を迎えるが、しばらくして、彼らが人質として監禁されている最中に語った物語が発見されて……というところから始まる短編集だ。

そこで語られる物語はそれぞれの個人的な思い出であり、互いに関連しあってはいないのだけれど、どこか共通するところもあって、
なのでこの本をきっかけに、もしも自分がこの場にいたら何を話すだろう、ということを近頃は考えている。
真っ先に思いついたのは、子ども時代のこの2人の話。

ユリちゃん - イチニクス遊覧日記
あみちゃん - イチニクス遊覧日記

そのほかにもあれこれと考えては、それは日記に書いたかな…と自分で検索をしたりしている。

そして今日、朗読会用に思い返していたのは、小学生時代のバス停での思い出だった。


私はその日、ピアノ教室へ向かうためのバスを待っていた。
以前は近所で教室を開いていたのが、その頃から先生の自宅での教室に変わったのだ。
当時の私はあまりピアノが好きではなく…というのも先生が厳しいからで、その日も十分に練習ができているとはいえず、きっと怒られるだろうなぁと思いながらバス停にいた。

そして、気づくと目の前に女性がいて、ベンチに座っていた私を振り返り「お金を貸してくれない?」と言った。
お母さんよりは少し若そうな、でも十分大人に見える人だった。
怪しい者ではない、急いで駅に向かわなくてはいけない用事があるのに財布を忘れてきてしまったのだ、住んでいるのはバス停の横の道をずっと行ったAスーパーの先で、取りに行くのは時間がかかる、
そう説明され、Aスーパーの先は確かに遠いと思った。小学生に大人が頼みごとをするという状況に、動揺してもいた。
「バス代だけでいいの」と彼女は言った。
当時のバス代は、おそらく200円程度だった。ピアノ教室の日なので余分にお金を持たされてはいたはずだけれど、当時りぼんを買う程度の小遣いしかもらっていなかった自分にとっては十分大金だった。
しかしバス停には私たち2人しかいなかった。
彼女は悪い人には見えなかったし、確かに困っているように見えた。
なので私は200円を貸すことにした。

同じバス停にいたものの、私と彼女は待っているバスが違っていた。ほどなくして彼女の乗るバスが来て、私が乗らないこことに気づいた彼女は慌てたように電話番号をたずねた。
そうして私は迷わず、嘘の電話番号を答えたのだった。


当時の自分は、おそらく知らない人にお金を貸したことが親にバレるのが嫌で嘘をついたのだと思う。知らない人について行ってはいけないとよく言われていたし、これはその範疇にある出来事のような気がした。
大人になった今思えば、見知らぬ人に電話番号を教えなかったのはそれで正解な気もするのだけれど、

ただ、今思い返すと、あの人はまるで家事の途中で家を出てきましたという様子だった。財布どころかカバンも持っておらず、
まるで何かから逃げている最中だったのかなという気もするのだ。
勘違いならいいなと思う。
でも200円が役に立っていればいいなとも思う。
そして私が伝えた嘘の番号に、かけていなければいいなとも思うのだった。



先日、ある読書会をした時に「百年と一日」という本について、記憶のある一点を、拡大してみたような本だという話をした。無作為にGoogleMapのあるポイントを拡大した時のような。見知らぬ場所に、様々な記憶が降り積もっていることを発見したような。
その流れで「人質の朗読会」も似た雰囲気のある本だと教えてもらって読み、彼女の言っていたことがわかったような気がした。

結局この日記を書いているのも、朗読会に参加しているのと同じようなことなのかもしれない。


どうしても子どもの頃の記憶の方が思い起こしやすいような気はするのだけれど
今年のことも、いつかの朗読会のためにまとめておければなと思う。

マスクと夕方、いなり寿司


人気のない道でマスクを外すたび、流れ込んでくる情報の鮮やかさに驚く。
夏の湿度に草いきれ、住宅街のカレーの匂い。コンビニのチャイム音に視線を向ければ、袖をまくった警官が冷気と入れ替わりに店へ入っていくところで、そのさらに向こうには灰色の雲と雨の気配。
様々な断片がいつかの「夕方」と重なって、ずっと昔に読んだ漫画*1に「嗅覚に紐づけられた記憶は鮮明だって」みたいなセリフがあったことまで、ひと息に思い出す。


そんな風に、長引く感染症流行下においては、世界が少し遠くにある感じで、
なので、念のためにと受けた精密検査から病気が見つかり、あっという間に入院手術の算段がつく間も、どこか他人事のようにぼんやりとしていた。
病気といっても、現時点での体調は良く、幸い治療しやすいタイプとのことで術後の生活もこれまでと大きく変わるようなことはなさそうなのだけど、
それでも検索候補に「余命」が出てくるような病名ではある。

昔読んだ小説に「どのくらい生きるつもりの生き方なのか」と問われる場面があり*2、その言葉は物語のあらすじを忘れてしまってもよく思い返していたのだけれど、実はごく間近で問いかけられていたのだと気づいたような感覚だった。


その辺りのことはまた改めて書いておこうと思うけれど、
今後のために今メモしておきたいのはいなり寿司のことだ。

病気のことについて、親に報告しようと連絡をしてから会うまでの1週間、
とにかく気が重くて、考えているうちにわかりやすく食欲が落ち、お腹を壊し、寝つきが悪くなり、まさにメンタルにきているという状態だった。頭の中では「これがメンタルにきているという状態か…」なんて客観視できていても、食欲は思うように戻らない。
これが続いたら体調を崩すな…と焦りつつ、「食欲ない 食べ物」などで検索しているうちに、自分の過去ツイートに「食欲がない時にいなり寿司を食べたら美味しかった」とあるのを発見し、
藁にもすがる思いでいなり寿司を食べたら、嘘みたいにちゃんとおいしかったのだ。

これまで特に好物と認識していたわけではなかったけれど、いざという時にいなり寿司が頼りになることは末長く覚えておきたいなと思う。

そんなこんなで親に会うまでにはなんとか体調も整い、親も年の功で、さほど深刻になることもなく、手術がんばろーね!という感じで受け止めてくれたのでめちゃくちゃホッとした。


あとの不安は入院期間中の文鳥のことだけだ。
幸い安心できる預け先は見つかっているのだけれど、
コロナ禍に飼い始めてこの2年以上はもっとも身近な存在として過ごしてきたので、多分自分の方が寂しくなるだろうという気がしている。
生き物と暮らすというのは、こうして、まんまと弱点ができることなんだなと思う。

帰り道、コンビニの角を曲がるあたりで、ペットカメラのアプリを開き、そろそろ私が帰宅する時間だとわかって「待ち」の体勢についている文鳥を見るときの、
この浮き足立つ感じもきっと、いつかの夕方に、マスク越しの情景として、思い出すのだと思う。

*1:多分魚喃キリコ

*2:伊坂幸太郎の「終末のフール」