- 作者: 永井均
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1996/05/20
- メディア: 新書
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この本を読むまで「哲学」というとイメージするのは「哲学史」であり、それと自分が考え事をすることを結びつけることはまた違うと思っていた。
しかしこの本で永井さんは何一つ「結論」めいたことは言っていなくて、ここにあるのはその思考する経過の記録みたいなものだった。そして「誰が何を言って、それが間違ってるとか合っているとか、そんなことは哲学ではない。こうしなければならない、というのは思想であって、哲学はなんら他人に強要する所のない個人的なものである」ということを繰り返し言っているように感じた。考えることの経過こそが哲学なんだとしたら、それはなんて興味深いことなんだろう。あ、そういえば昔、哲学は「するもの」だって言葉を聞いたことがあるけど、それはこういうことだったのかな?
私が、この本を読んでまず感じたのは、哲学とは感情とは切り離されたところにあるものだということだった。全てのものには複数の可能性があり、その全てを平等に机の上に出して、自分は何故「それ」を選ぶのか、という理由を考える。そんな情景が思い浮かべられた。好悪ではなくなぜそれを「好し/悪し」と感じるのかというところから考えてみる。
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私にとって哲学ってなんだか分からないけど、ちょっと面白いかも、と思わせてくれたのは大学の時に美学の授業で読まされたプラトンの「饗宴」、そしてまた別の機会に読んだソクラテスについての伝記だった。とくにソクラテスについては、残念ながら誰の書いた伝記だったのかすら覚えてないけど、難しい字を追っている中で「私は自分が知らないということを知っている」という文字を発見した時のピカーっとした感覚って言ったらなかった。ゲーテの「ファウスト」に出てくる「なんでも知らないことが大切なので知っていることは役に立たない」という言葉のニュアンスの方が好きだけど、とにかくあの処刑されるソクラテスが感じていたであろうことを想像するのは私にとってとても興味深いことだ。
でもそれを興味深いと感じることが既に私の思考回路が感傷的であることの証拠なのかもしれない。確かに、「〈子ども〉のための哲学」を読んでいて、最も惹かれた言葉は、
水面に浮かびがちな人にとって、哲学の価値は、言ってみれば、水面下のようすを知ることによって水面生活を豊かにすることにあるだろうし、それしかないだろう。(中略)でも、水中に沈みがちな人にとっての哲学とは、実は、水面にはいあがるための唯一の方法なのだ。
(数ページ略)
そして、ぼくは実は、だれでも、どんな人でも、ほんとうは、それぞれのしかたで、水中に沈みがちな一面を持つのではないか、と思えてならないのだ。
という、字面だけ見ていると、とても感傷的な言葉に見える部分だった。けれども、ここまで読み進めた上でこの言葉を読むと、とてもわかりやすい喩えであり、可能性を感じさせてくれる言葉でもあった。
ともかく、いろいろなこと、ときには当たり前とされていることに疑問を持ち、考えてみるということはとても大切なことだと思う。(全ての人にというわけではないかもしれないけど)それと同時に、こうして他人の思考を読むこともまた、自分の考えに対し、別の角度から光を当ててくれる貴重な機会でもあるのだと、私は思う。『翔太と猫のインサイトの夏休み』も読んでみよう。