音楽を語るということ

なぜ音楽はセンス競争が一番強力に働くのだろうか?

という記事を読んで、まあ結論としては、好きなものを好きって言えば良いのに。ということに尽きるんですが、ちょっと思いだしたことがあるので書いてみる。もとの記事とはちょっとずれた話です。
  *****
確かに、音楽というのは、小説や漫画や映画などの文化に比べて、知識自慢とか張り 合いとか、そういった競争というか自己主張が、個人間でよく起こるジャンルだと思う。それはなぜか、ということについて、上の記事で、

なぜ、音楽において、センス競争が激しいのかといえば、音楽は非常に数が多く、ジャンルが細分化しているからだろう。ある音楽を聞いて、 適切なジャンルにわけられるかどうか、ということを見抜ける能力、それがセンス だ。

と書かれている。私もこれに異論はないのだけど、付け加えるならば、「音楽は聴くだけでいい」ってことと「音楽には形がない」ってことだと思うんです。
本の感想、映画の感想、漫画の感想などなど、これらはまず読んだり見たりしなければいけない。ある程度まとまった時間を費やさなければならない。そしてそれらは「物語」という自分と重ね合わせることのできる部分について語ることができる。
しかし、音楽というのはとても瞬間的なもので(オーケストラや長大なインプロヴィゼーションなどを除き)だからこそ語りやすく、しかし語る上でのつかみどころがない感覚的なものだから、ジャンルで語られることが多いんだと思う。 私は、ジャンルというものは、その音楽の歴史をまとめる言葉だと思っている。そのミュージシャンがどういうところから影響を受けて、現在の音楽を作り上げたのか、 それを知る手がかりとなるものがジャンルなんじゃないかな? そこから芋づる式に好きな音楽にであっていければ良いんだけど、でもこの歴史認識っていうのは結構曖昧だから、これはアレだ、いやコレだ、とかそういう議論も起こりやすいんじゃないかと。
でも、そういうのってミュージシャン自身にとってはどうでも良いことだったりする場合も多いし、そんなのは結局その音楽の本質にはなんら関係のないことだと思う。だって、「それ」を知ってても知らなくても、感覚で受け取ることが出来るのが音楽の良いとこだと思うから。頭で考えるというよりは、身体感覚で楽しむものだと思うから。
確かに、例えばラトルズとか聞くときに、ビートルズ(はまあ大丈夫か)やモンティ・パイソンを知ってるか知らないかというのは「より深く楽しむため」には重要なことだ。だからより深く楽しむために、知識を得ようとするのは、当然のことかもしれない。でもこれはまた別の話。 例えば昨日書いたムーランルージュの曲とか、元曲を知ってるとさらに楽しいとかの場合、監督のそれらの楽曲に対する愛情を感じて、嬉しくなるのも楽しみ方だ思うけど、そういうのと似ている気がする。
なんかうまく書けないけれど、私は好きな曲は好きだといえばいいじゃない、と思うよ。
自分はこれが好きだ! と思って、その好きが他者からどう見られるかという自意識を越えた時に自分の好みってのが出来上がるんじゃないかな。そして、そうやってどんどん好きなものが増えてくのが私は楽しい。

また一番強力なセンス競争は「好きなもの」より「嫌いなもの」の表明かもしれない。

と書かれていたのを受けて、私の嫌いな音楽ジャンルについても書いてみる。
それはユーロビートです。このジャンルにあてはまるものは大概音色が苦手で、聞いていて落ち着かないからかかっているだけでちょっと辛い。それ以外は作品によるのでなんとも言えません。あと商業主義的なヒットソングについては、それはヒットしたということだけで価値があると思う。時代を反映しているという意味でも。ただ、ばーっと売れて、そのあと中古品でだぶりまくって100円とかになっちゃうCDばかりが作られるようになったら嫌だと思う。でもそんなことはきっと起こらない。(と思いたい)

ARCHAEOLOGY

ARCHAEOLOGY