「ある」ということ「ない」ということ

ちょっと前のmichiakiさんの記事がとても興味深くて、ふと思いだしては考えてみたりしている。

「我思う故に我あり」は思考の存在を前提としている。でも、「何かがある」には思考はいらないんです。感覚だけで良い。
http://d.hatena.ne.jp/./michiaki/20050926#1127745320
真の意味での「ない」、「何かがある」の否定としての「何かがない」は、ヒトの脳を借りて思考するしかすべのないわたしたちには、考えることができないのです。「何かがない」とは、「何か」がいちど存在したあとにしか言えません。
http://d.hatena.ne.jp/./michiaki/20050930#1128090049

特に私が気になっていたのは2つ目の文章の中にあった「"ない”こともない」という言葉についてだったのですけど、確かに、よくよく考えてみると、「ない」ということは全て「ある」からはじまっている。ではほんとに「ない」という状態とはどういうものなのか。
例えば空想上のものが概念として存在しているとしても、それがAという人の頭の中にしか存在しないとすればBの頭の中には「ない」ということにならないだろうか。でもその「ない」ということですら、Aの頭の中に「ある」ということを前提にしか語られないものだ。
そして、自分自身を感覚として「ある」と認識するというのも、そういうことなのかもしれない。たとえば透明人間だったとしても自身が「ある」と感じていればそれは「ある」。
では「全てのものが無い状態」とはどういうことか。
それは、やっぱり思考や感覚が「ない」ということなんじゃないだろうか。「ある」ということを知らないということで、はじめて「ない」だけが存在するんじゃないだろうか。だから、「何かがある」の否定としては機能しない。だって「何かがある」という状態のないところにしか存在しないのが「ない」なんだから。だからやっぱり、何かがあるということを知る、つまり「我思う故に我あり」なんじゃないかなって。
と、ここまで考えてきてやっぱり「我思う故に我あり」まで戻ってきてしまったのだけど、「思考」と「感覚」の違いについてがまだよくわからないままでいる。でも面白いのでもう少しいろいろ読んだり考えたりしてみようと思います。
それから、michiakiさんの二つ目の文章の「あってしまっていることこそが、何よりも驚くべきことである」というのは良い言葉だなと思いました。