ひとびとのそれぞれ

最近よく考えていたことの一つに、人は他の人の考えを正確に理解することは出来ないんじゃないかという疑問があったのだけど、それはきっと「哲学の謎 (講談社現代新書)」に出てくる言葉を借りると「私たちは皆同じ世界に住んでいながら、別々の意識をもって生きている」から、と言えるんだろう。私の見ているそれは、また別の人が見ているそれとは重ならない。ましてやその意識の内部については、いくら想像してみたところで、それは自分の内部に投影された自分の意識でしかない。

私の知覚世界と他人の知覚世界とは比較不可能なのだ。それは、完全に断絶している。(p86)
にもかかわらず、お互いの心についてある程度分かりあえ、しかも実在の世界についてもある程度確実に知りうる(p31)
野矢茂樹/「哲学の謎」より

そんな「意思の疎通」をおこすことが出来るようになった最大の要因は言語の発明だろう。言語という規律が発明され、それに同調し習慣化していくことで、一つの共同体が生まれ、思想が生まれ、行動が一般化される。
でもAの言葉がBに受け継がれる際には、当然B個人の意識や体験が影響している訳で、するとそれはもうAの言葉と正確に同じではあり得ないんじゃないだろうか。だからこそ、生きて行く上で似たような体験を重ねて行ったとしても、その周囲から与えられる影響によって、全く異なる考え方が生まれたりする。だから良い/悪いの判断だって、その背景によって異なってくるし、個人の中でだって変化していくだろう。
例えば今読んでいる本には三木清さんによる「全体主義」についての記述が出てくるのだけど、今現在の私はそれをちょっと気持ち悪い、と感じる。でもそれを、また別の側面から見れば(当時の社会情勢とかを鑑みたりしてみれば)そのような力が必要な状況もあるのだろうことは想像できる。もちろん言葉だって多くの人の間で使用されるにつれその意味は更新されていく。
だから、私は断言したり、批判したりすることが苦手というかあんまり好きじゃなくて、それよりはその考えが何故起こるのかのほうに興味がある。もちろんそれに対して好悪の感情は持っているのだけど、自分の感情に流されるだけじゃなくて、なんで私はそう思うのかというところをいつも、だと疲れるかもしれないから、まあそれなりに考えていたい。つまり、こうやって本を読んだり人の話を聴いたりするのは、比較不可能かもしれない他者の意識を自分自身の中で想像することなんだろうなと思います。理解できないとしても、理解しようとはしてたい。
その感じはあの、6人の盲人が一匹の象を触ってみて、語りだす象の全体像が全く異なっているということわざに似てるかもしれない*1。解釈がちょっとずれるけど、言っていることは全然違っていても、触ってる象は同じ象だっていうのが、やたら面白くて、嬉しかったりするときがあるんですよね。いろんな言葉で、じつは同じものをあらわそうとしてたら、いつか交差するときもあるかもしれないし。
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あーと、どんどん最初に言いたかったこととずれてしまったけど、じゃあ、仮に自分の意識を完璧に理解できる存在がいたとしたらどんなだろう。
たとえば私のコピーロボットがいたとしても、それはもう別々の知覚世界を持って行動を始めた時点で私の意識のコピーではあり得ない気がする。じゃあ、私の死後にクローンで再生された私がいたとして、私の記憶を全部もっていたとしたら? それはあり得るかもしれない。でもそれは一つの意識の中に綴じ込められてる感じがする。じゃあ私の頭の中にもう一つの人格が住んでいたら?「たったひとつの冴えたやりかた」を読んだ時にそれを考えてたんだけど*2これはかなりいい気がする(大雑把な言い方ですが)。これまでが違っても、これからの知覚の世界は共有できる存在がいたとしたら、どんなことになるのかちょっと想像つかないけど、面白いのになと思う。でもやっぱり意識は共有してないわけで、この感じって、この「哲学の謎」に書かれているやりとりにちょっと似ているかもしれないなと思う。
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あと「哲学の謎」に出てきた話で、もう一つ気になってることがある。それはあの世界が5分前に出来たとしたら、って仮定の話なんだけど、そうすると、いまここから様々な条件とか意識が複雑に絡みあって世界が出来上がってくってことなんだろうけど、それっていつ終わるんだろうか。5分前の前は? というかそれってそもそも人類創世とかと条件的には同じ? もう一回ゼロから世界が始まって、全く同じ条件でスタートしたら、そこにやっぱり私はいるんだろうか。
なんて考えてたら「銀河ヒッチハイクガイド」のラストシーンを思いだした。ほんと、世の中には面白い本がたくさんある。

*1:このことわざについてはここで解説されてる → http://jiten.com/dicmi/docs/k2/14173s.htm 日本にも同じようなことわざがあるけど、意味はかなり異なってるのが不思議。元は同じなんだろうか?

*2:id:ichinics:20051005:p2