カテゴリーの先と手前を想像すること

長年自分という人間と付きあってみても、どうもこううまく自分を扱えないところがあって、そういう時にふと、RPGを現実でやっているような不自由さを感じたりすることがある。(この喩えは誤解を招くかもしれないけど、自分に対して客観的な目線があるという意味で)
年齢とともに経験を積み重ねていけば、自分なりの美学のようなものが出来上がって、こういう場合にはどう行動するべきだとか、何かを言いたいと思っても、それを言われた場合の自分を想定して躊躇ったりすることが、ほぼ無意識のうちにおこなわれるようになったりするのだけど、それでも自分自身に染み付いた「癖」のようなものは抜けなくて、私の場合のそれが何かといえば、こんな風に自分の考えたことを吐き出したがるということなんだと思う。「考えたこと」なんていうと漠然としているけれど、それは大抵の場合価値観についてのことだったりする。私は何かを断言することが苦手で、何にでも例外はあるのだろうと考えているし、全くもって理解できないことというのも世の中には溢れかえっているのだけど、そういうものをただ「理解できない」と言うことで結論したくない。価値観の齟齬を目の当たりにすると、つい触れてみたくなる。
でもそれが、大概においてうっとうしいものだということもよくわかっているのだ。そして、日常生活でいちいち立ち止まっていたら、それはもう疲れるし手間がかかるし厄介なので、人はいろんなものをカテゴライズするのではないかと思う。
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以前にカテゴライズすることについてちょっと考えたことを書いたことがあって(id:ichinics:20051013:p3)、その時に考えていたことはまたちょっと別の話(多分サブカルとかそういうことについて考えてたんだと思う)だったんだけど、そこで「自分から近い人から与えられたカテゴライズよりも遠いところからのカテゴライズのほうが受け入れられやすい」というようなことを書いた。
その時は、自分から近い人にはそれだけ『自分の本質』を見てもらえるだろうという期待をしているからなんじゃないかと書いたのだけど、その自分が捉えている『自分の本質』的なものこそが最初に書いたRPGをはじめるにあたって育ててしまったキャラクターに感じる不自由さ(自分自身との齟齬)のようなものなんじゃないかと思う。もしくは居心地のよいカテゴリーを与えられた時に、それを維持するために、自らの振る舞いに不自由さが生じるということもあるだろう。
しかしカテゴリーに分けるという作業は決して永続的なものではない。喩え一般化されているカテゴリーだとしても、分類された個々のもの自体の本質は別にあるのだということを忘れてはいけない。
例えば先生と生徒がいたとして、「明るいクラス」にその生徒が属しているからといって「明るい子」である訳ではないとか、amazonで買い物をして、おすすめされる商品が欲しいと思えるものばかりではない、なんて身近なところから、自分の国と敵対している国民だからといって、自分の敵であるということではないという大きな単位まで、私達は様々な場面で無意識に分類されたものを扱い、分類されることに慣れていて、そしてたまに混同する。でも「こうありたい」と思う自分自身は、別にいる。たぶん。
分類することは便利だ。そんでそういう話を、たとえば「こういうの好き」とか「ああいうの嫌い」とか、いろいろ言ったりするのは、楽しい。
ただ、忘れてはいけないなと思うのが、やはりその分類が、個々の本質を決定づけるものではなくて、自分は、自分が分類して見ているのと同じように見られている存在でもあるのだということだと思う。
「自分」と「他者」がいるという分類に慣れているけれど、それはつまり他者もまた「自分」であるということなんだって、思いだしていたい。
なんて至極当たり前のことなんだけど、改めて考えたりした。
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んーなんだか曖昧な話になってしまったけれど、結局何が言いたいかというと、想像力って大切だよな、とか、そういうことです。