砂漠/伊坂幸太郎

砂漠

砂漠

もちろん、これまでの伊坂幸太郎作品は大好きだ。でも、『魔王』からの伊坂幸太郎は、明らかに伝えようとする明確なメッセージを持っていて、その真摯さに、私はこんな小説を今読めることを感謝したいと思ってしまう。
確かにそれまでの、エンターテインメント性に溢れた物語も大好きなのだけど、この2作にはあの美しい構成力をかなぐりすてて、物語が破たんする可能性も恐れずに、これを言おうという強い意志が感じられるとともに、やはりどの作品にも共通する伊坂幸太郎さんの暖かみのようなものも、ちゃんとある。そして「魔王」も「砂漠」も、やはり面白い「小説」である事にかわりはない。
 *
この『砂漠』は大学生活という人生における最後のオアシスのような場所で青春を謳歌する5人の若者が、多少の例外はあれど、やがて砂漠へと歩を進めるまでのお話になっている。
常にクールで冷静な、鳥瞰型の北村。天真爛漫でリーダー気質の鳥井。ラモーンズが大好きで、世界平和の為に麻雀で「平和」を上がろうと躍起になる西嶋。日だまりのような雰囲気をもつ超能力少女、南。そして無表情の女神、東堂。東西南北揃って麻雀をやるシーンには苦笑してしまったけど、その麻雀を通して、彼らは仲間になっていく。
サンテグジュペリの『人間であるということは、自分に関係がないと思われるような不幸な出来事に忸怩たることだ』を翻訳し、西嶋は『人間とは、自分とは関係のない不幸な出来事に、くよくよすることですよ』と言い放つ。まずは身近な友人のことに。そして砂漠へでて、その先にあるどこかの国で、難破している人たちを助けに。

「超能力はこうだ、とか、信じる人はどうだ、とかね。たとえば、映画を観ても、この映画のテーマは煮干しである、とかね。何でも要約しちゃうの。みんな一緒くたにして、本質を見抜こうとしちゃうわけ。実際は本質なんてさ、みんなばらばらで、ケースバイケースだと思うのに、要約して、分類したがる。そうすると自分の賢いことをアピールできるから、かも」p240

という言葉にあるような、わけ知り顔の賢者が増えた世の中で、安全なところからごちゃごちゃ言っているんじゃなくて、自分がその砂漠の世界に参加して、自分で考えろと、そういう話なんじゃないかと、私は思った。だめかもしれない、何もできないかもしれない、なんて言って立ち止まっていないで、目の前の不幸をじゃんじゃん助けてしまえばいい。そう言い切り、失敗し続けても自分を信じる西嶋が素敵だ。そして、『否定するのも、深入りするのも、好きじゃない』と言っていた北村も、地上へと降りてくることで、世界に参加する。それは仲間というオアシスの存在があったからかもしれない。そして、いざ降り立ってみれば、〈砂漠に放り出されて『あとは自由に!』って言われたような(p263)〉気持ちになるかもしれない。でも、西嶋は言うんだよ。

「その気になればね、砂漠に雪を降らすことだって、余裕でできるんですよ」p14

確かに論理的な台詞ではないけども、その西嶋の演説を思い返すことで、勇気づけられることがあるだろう。
 *
ちなみに文中に幾度か出てくるサン=テグジュペリの引用はすべて『人間の土地』からのものでした。
それからid:ichinics:20060105:p1にも書いたけど、西嶋はやっぱサンボマスターっぽい。そして新井英樹がインタビューで答えていた「どこか遠くのことにまで怒ってる」という言葉を、思いだす存在だったりもします。うーん。面白かった。

伊坂幸太郎インタビュー

「魔王」についてが中心なんだけど「格好悪いけど格好良いものが好き」という言葉は今回の「砂漠」にもあてはまるなーと思った。
http://media.excite.co.jp/book/special/isaka/