体験する読書、のような

最近、保坂和志さんの「カンバセイション・ピース」を読んでいる。保坂さんの本を読むのは久しぶりなのだけど、でもこれを読んでしまえば、小説では読みのがしているのはほとんどないはずだから、保坂さんは最近あまり「小説」を書かれてはいないのかもしれない(この本だって2003年のものだ)。ともかく、それくらい久しぶりなんだけど、この世界/文章をとても懐かしいと思うと同時に、新鮮だと感じながら読んでいる。
前に集中的に保坂さんの作品を読みあさっていたときも、もちろんすごく面白いと思っていたし、繰り返し読んだ作品もあるのだけど、今では確実に自分の中での受け取り方が変わっている。この本のなかで「思っている」のがまるで「自分」のような気もしてしまうくらい、この私でない他者の視点、に重なるというのがすごく不思議な感触なんだ。例えば今日、

いまではもうチャーちゃんが死んだあの頃ほどの強さで悲しみが襲ってこないことが普通になっていて、私は悲しみから解放されたのではなくて取り残されたように感じるのだ。p155

という部分を読んで、いくつか思い出すことがあって、本を閉じていろいろ考えてみた。
悲しみ、とか悩みとかの渦中にいるときには、この辛さのようなものから抜け出したい、という気持ちも働いているのと同時に、この辛さをわすれてはいけない、とも思っている。特に、何かを失うということに伴う悲しみについては、それを覚えていることこそを大切にしがちだったりもするのだけれど、閉じられていた入り口が開くにつれ、新しいものが入り、混じり、それがなくなるのでもなく薄まっていく。
今の私が、前の私と明らかに別人であって、その思いを共有できないということは、その瞬間ごとの切断面に自分がいるからこそなのだけど、振り返ったときにその距離を見て、「取り残された」と感じることもあるのは、私が切断面だけでなくて、過去の私、に感情移入できるからなのかもしれない。
それと同時に「あの私」と繋がっている場所にいる私は、新しい何かを自分のなかに溶け込ませているからこそ、この本を読んで見えるものが、たぶん発売当時の2003年の私や、保坂さんの作品を読みあさっていた頃の私とは確実に違うのだ。
なんてことを考えるのが、まるでこの小説の語り手の思考と地続きにあるように感じられる瞬間がいくつもあって、面白い。
そんでまた本を開くと、ごく自然にそこに書かれていること、ではなくてそれを考えはじめている。