考えることのイメージ

毎日ごちゃごちゃと、ここに言葉とか文章を書いたりしてるけど、私はわりと、自分の書いた文章についてよく覚えている、と自分では感じていて、それが増えていくたびに、ほんの少し、いまいる部屋がどんどん広くなって壁に手が届かなくなっていくような、そんな頼りない気分になる。
例えば「考える」ということのイメージとして私は最近よく「俯瞰」という言葉をつかうけど、そのほとんどは(全部じゃない)、頭の中にある、たくさんの亀裂の奥を、高くから照らして見るような気分のことだ。
でも遠くにいけば、奥まで照らせるけど、対象物は小さくなって見えにくいような気もする。それがもどかしいのと同時に、焦点があった、と思うときは嬉しかったりもするんだけど。
でもいつか、その亀裂の暗く覆われている部分が全部照らし出されるときがくるんだろうか、と想像すると、それは立体が解体されて平面になっちゃうようなことなのかもしれない、という漠然としたこわさもあって、
だからこそ、自分以外の人が何を考えているのか、ということが、永遠に照らしきれないものとして必要とされるのかも、なんてことを、ちょっと酔っぱらった頭で思った。
なんだか、すごくおこがましいことを書いているような気もするけど、
もしかしてわたしは…って自分の考えてることもやっぱわかんない、のかわかりたくないのか。