ドッグヴィル

監督:ラース・フォン・トリアー
2003年公開作品。ようやく見ました。
飛行機に乗らない/乗れない映画監督であるトリアー監督がその国を見ずに「アメリカ」を切り取る、というのが公開時の宣伝文句にあったような気がするけれど、かなり普遍的な人間社会を描いた作品だったと思う。
本作の最大の特徴でもある、床に白線がひかれたスタジオで最小限におさえられたセット、という特徴的な舞台美術はもちろん、その脚本と演出における試みは、あまりにも綿密であり、その内容よりも、むしろそこに窺える監督のストイックさに驚かされる作品だった。

(以下内容に触れています)
* * *
アメリカ、ロッキー山脈の村に、ひとりの美しい女性、グレースがギャングに追われ、逃げ込んでくるところから物語ははじまる。
村人たちは、彼女を匿うことを選択し、彼女からの奉仕を受け入れるようになっていくのだけれど、その釣り合いのとれない力関係は簡単に破たんする。
この過程を描くのには、やはり透明であるセットが効果的だったと思う。その箱庭のような舞台の上にいる人物たちには「見えない」ものが、映画を見る私たちには「見える」。そのことによって、その登場人物たちは、それを「見ていない」のだと感じさせられる。
グレースを匿う、ということは当初、村人たちの「美徳」であったはずだ。しかし、それがやがて見返りを求める「権利」だと錯覚され、彼女の奉仕は「義務」へと変化していく。個人の意志よりも集団の倫理が優先され、それは外部の人間であるグレースを許容しないことから、真実は「見られ」ない。だれも立ち止まらない。そしてそれが集団の倫理として「許された」と感じた瞬間に、彼等は「権利」を振りかざす。それがもともとは求めていなかったものだとしても。
そして物語の結末、グレースは彼等に審判をくだすことになる。
その場面がきて、ようやく、これは、グレースの父であるギャングのボスを「神」そして、ドッグヴィルという地に遣わされたグレースを「キリスト」とする、明確な暗喩のもとに描かれた作品だったのだなということに気が付いた。すると、物語の全般を通してグレースの視点が俯瞰であったことが腑に落ちる。彼女は「見る者」だったのだ。
しかし人々は彼女の奉仕を忘れ、十字架(首輪と重し)を背負わせた。
その事実を元に、グレースと権力者である父親は問答を繰り返す。彼等に罰を与えようとする父も、許しを与えようとする娘も傲慢である、と。
問答の後、グレースはしばし一人で逡巡するのだけど、その瞬間、グレースの人格が分裂したように感じられた。遣わされた者であり、見る側であったグレースは、そこの町にいた「自分」をまた対象に加え、彼女(つまり彼女に向けられた人間の醜さ)を見てしまう。そして、その為に、権力を行使することになる。
* * *
トリアー監督が、この村の側、グレースの側のどちらに「アメリカ」を重ねていたのかは、正直わかりませんでした。
キリスト教をモチーフにした作品であることは確かだと思うけれど、物語の筋としては、キリスト教的価値観に批判的だったとされるトウェイン「不思議な少年」にとてもよく似ていることから(といっても読んだのかなり昔なのでちょっと自信ないけど)、この物語の結末が、ある程度幅を持たせたもののように感じられたのは意図的なことなのだろうと思う。
テーマは多様であり、例えば「社会」という集団が均衡を保つということはとても難しいということ、そして、欲望の側に流されることはあまりにも簡単だということ。そういう点では実験的な映像ながら、伝承民話のように、普遍的な罪の構造を描く物語だといえるかもしれない。そしてこのセットもまた、俯瞰という視点を補強するものだったのだろうと思う。
重く息苦しい作品ではあるけれど、謎を解くような楽しさもある作品。