カンバセイション・ピース/保坂和志

ichinics2006-03-13
この本を読むのは、私にとってごちそうを食べるようなものだった。
ついこの間、私はヴィトゲンシュタインさんの『私は、私が世界をどのように見たか、を報告したい』という言葉を知って、なんだか目から鱗が落ちたような気分になったのだけど、この本に書かれていることは、まさしく保坂さんの『報告』であって、こんなふうに、誰かの『報告』を聞いて、触発されるということは、私にとってのごちそう、なんだと思う。
「この本はずっと手もとに置いておくだろう」と思った本には、遠慮なく折り目をつけていくのが習慣なのだけど、この本にはほんとうにたくさんの折り目をつけてしまった。画像を見ると、ちょっと気持ち悪いかもしれないけど、私は少なくともこれだけの回数は立ち止まり、この本と会話をしたような気持ちになっている。
例えば私は一昨日、『(考えるということは)頭の中にある、たくさんの亀裂の奥を、高くから照らしているような』なんてことを書いたのだけど、今日350頁あたりから読みはじめたところで、

言葉が光でその光が闇を照らしたのではなくて、言葉が光になったから言葉の届かない場所が闇になってしまったということで(p365)

という一文を見つけて、返答というかまた新しい光に触れたような気分になり、その少し後で、この本の最初の方で気になっていたテルトゥリアヌスの言葉、に「物が悲しみを知ることはありえないがゆえに事実なのだ」(p368)という台詞で腑に落ちたりしていた。
そんな風に、物語の中にある思考の流れを、その場で一緒に見ているような気分になりながらこの本を読んでいたし、この物語はストーリーではなくて、そこでどのような思考が流れたかという物語なのだろうけど、

おれだって、いつも何も取材したり資料集めしたりしないで好きなことしか書いていないように思われがちだけど、小説の中に何でもかんでも詰め込んでるわけではなくて(と、そこで妻が「あら?」と驚いて見せた)、いろいろ取捨選択はしている。
おれにもし莫大な財産があって、収入なんか一銭もなくていいって言うんだったら、書き上げることなんか考えずに、書いている時間そのものだけになるような、いつまでも書き続けている小説を書くだろう。
そうなったら職業じゃなくて趣味で、まあ、それが究極の趣味のあり方かもしれないな。(p259)

と書いてあるのはやはり保坂さんの言葉なのだろうと感じられるし、この物語でも、もちろん何かが取捨選択されている。そして主題として選択されているのは「容れ物」についてなのだろうと思っている。「家」そして命の容れ物としての「チャーちゃん」など、様々な容れ物について考えながら、常に生まれ続ける闇の部分をまた、考え続けている。

「わからないときにすぐわかろうとしないで、わからないという場所に我慢して踏ん張ってかんがえつづけなければいけないんだな、これが」p304

というのがまた、良い言葉だなと思った。ぜーんぶ理解してしまうなんてことが仮にありうるのだとしたら、それは死に似ているとか、ふと思う。だからといって、それは知りたいという気持ちを止めない。

カンバセイション・ピース

カンバセイション・ピース

読でる最中の記録

その1 → id:ichinics:20060304:p3
その2 → id:ichinics:20060309:p1