断片いろいろ

朝起きて、テレビを見て、ファミレスに居座って仕事をして、場所かえてまた続きをやって、そんでつい先ほどかえってきたのだけど、時々ちょっと手を休めて朝見た番組のことを考えてた。
あの「真実」と「事実」は違うっていう話だ。
言葉の使い方はそれぞれあるので、ここで「真実」という言葉を当てはめると誤解もあるかもしれないけど「事実」はひとつでも、それを見る人の数だけ捉え方があるという意味で異なっているということと言って差し支えないと思う。
ただ、その捉え方の方は、それをあらわすために「それではないもの」との共鳴が必要になるみたいで、つまり輪郭は内側からしか描けないということがドキュメンタリーなのかとかぼんやり考えたりした。うーん?
何で仕事しながらそんな方向に考えが進むのかというと、仕事をしてる時には「理解させるための言葉」を使っていて、つまり誤解を避けるための言葉選びが必要になる。それにはまず、その理解させるべき何か(例えば別の人の言葉)、を私がきちんと理解しなければならない。そこにはちょっと不安もある。
でも、考え事をするときや、いまここで書いている言葉は、自分の文法でOKなので楽しいんだと思う。フリーダム。でも自由というのも規則があるとこにしかないのですよとか誰かが言ってたような言ってなかったような、つまり世の物事にはすべて対象となるもの(反対というわけではなくて)があって、つまりそれは生と死とかで、死がなければ生は影をなくしてしまうのになんで「不死」はいろんな物語の中で求められたんだろとかそんなことまで考えはじめるくらい疲れた。でも「そして王様は不死になりました。めでたしめでたし」っていうお話ってあるっけ? ない? 私の知る限りではないような。
ああ話がずれた。でももちろん「理解させるための言葉」ではないということがイコール「理解されないための言葉」ではなくて、言葉にならない部分をふくめられるというような感じ。
そうだな、例えば感謝をあらわす時に、「私はあなたに感謝している」と書くか「このご恩は一生忘れません」と書くかみたいな。それでも「あなたのしたことを忘れることができないだろう」とは書かない。それじゃあまるで恨み言だ。