会話の見る夢

昨日、「犬猫」を見たりして考えたことをもう少し。
この映画を私はDVDで見たのだけど、そこに入っていたメイキング映像がまた、とても面白かった。
そこで監督は、主演女優の二人(榎本加奈子藤田陽子)に「台詞を言いながら状況とまったく別のことをする」という練習をやらせている。例えばトランプ、例えばジェンガ。言葉と行動を切り離す作業としてそれが訓練され、台詞に込められた「意味」が振るい落とされる。そのことによって「言葉」は口をついてでる振る舞いとなり、監督の言葉を借りれば「見ている人が感情を乗せられる〈余白〉」が生まれていた。
「犬猫」は映画というフィクションなのだけど、そこにある会話の「力加減」が、その空気に生々しい手触りを与えていたように思う。
で、この前読んだ「ヴィトゲンシュタイン入門」(id:ichinics:20060403:p1)の中の一節に

少なくとも日常のなめらかな言語実践においては、誰もが意味盲だからである。(p184)

という文があって、この場合の「意味盲」という言葉については、まだ私は理解できてないので曖昧だけれど、でもなんとなく、この映画のメイキングで監督が繰り返していた「力を抜くこと」が「日常のなめらかな言語実践」を生み出していたのではないかなと考えたりした。

意味が心に浮かぶことを夢になぞらえるなら、われわれも通常は夢を見ずに語る。「意味盲人」とはそれゆえ、どんな場合にも夢を見ずに語る人のことであろう。p191(『心理』二三二節)

例えば、こうして文章を書いているとき、全ての単語についてではなくても、わりと一つ一つに「意味」は込められている。
例えば最初に書いた『昨日、「犬猫」を見たりして考えたことをもう少し。』というとこの『見たりして』は「ここから先に書くことは「映画」だけが切欠じゃないけど」という言い訳だったりする。うーん、うっとうしい。でもまあそれは先日の「ひとつひとつを小皿に盛って」というのと、似ていると思う。あの文章の一単語づつがそれこそ「小皿に盛られた食材」な訳で、それをたくさんの人が矯めつ眇めつして、推敲したり改編したり。(あれは楽しかった)
だけど、「会話」というライブ状況においては、いちいちそんな推敲をしてる間もなく、つまり「夢を見ず」に流れていく場面がとても多い。(これは別に良いことでも悪いことでもなくて「おなかがすいたらご飯を食べる」くらいのことだと思う。)ひとつひとつの言葉の「意味」よりも、その場の雰囲気や相手の表情にあわせて、会話は形をかえていく。
しかし「夢を見ない」とは言っても、たまーに、どちらかの言葉に重力が与えられてたりもする。その瞬間に気づく/気づかれてると信じられる、と思うこともやっぱりあって、あの二人、ヨーコとスズの関係性については、その夢を見るタイミングが重なるときに、なんか起きたり面白かったり印象に残ったり、するのかもなぁとか考えた。
この先はまた考える。

参考

「犬猫」について、「東京猫の散歩と昼寝」さんのレビューが興味深かったです。→ http://d.hatena.ne.jp/./tokyocat/20050807