善いこと/悪いこと

一般論、というときに私が思い描いているのは「経験則」および「社会の共通認識」というかそれってたぶん「倫理」とか「道徳」に近いものなんだと思う。
こういうものについて考えたり書いたりしていると、自分以外の人はそんなこと全て承知で、わたしだけが見えてないんじゃないのかとかそんな気がすることが、たまにあるんだけど、まあそんなことは考えても仕方ない。自分が自分で見えたと思えるように考えてるんだろうなということで、やっぱり考える。

例えば、一般論的に「善い」とされてることが、なんで善いかといえば、それが「一般論」、というか、例えば大多数にとって、都合のいいことだからなんだろう、ということ。でも、それは平均じゃない。あくまでも大多数の部分なのだろうし、私がこういう時になぜこれを考えるんだろうってことを考えてしまうのは、それが少し、ずれそうで(もしくはもうずれている)、ずれることを「善」から外れることだと感じているから、なのだと思う。

でも、例えば「善いこと」をしようと思う時に、それが「善いこと」だからしようと思うことは、本質的に「善」と同じではなくなってしまっていないだろうか? ということを考えてしまうことは、自分にとって、ごく当たり前のように、感じている。何が善いのか、それはなぜ善いのか。自分に都合が良いからなのか、自分にとって大切な人にとって良いことだからなのか、それとも、その全く逆か。
それを考えなきゃいけない、というのではなくて、その善(もしくは悪)を理由に、自分以外の世界を非難することには、なにか矛盾がないだろうか。

こんなことを考えはじめたのは、先日友人と話したことがきっかけだった。その友人の同僚に、他人の悪口ばかり言う人がいるらしく、なぜその人が臆面もなく悪口を口にするのかと友人が尋ねると「思ったことは口に出していい」と誰かに言われて「そのとおり」だと思ったから、と答えたのだという。「もともとが他人の影響なら、言われた人がどう思うかを考える切欠があれば、かわることもあるかもね」みたいなことを、その時の私は答えた。でも、例えばその「悪口を言う人」が、自分の意志で、思ったことは言っていい、という結論に達してそれを口にしているなら、そしてそのことによって、私の友人のように、それを好ましく思わない人もいる可能性を受け入れているなら、それを止めさせる理由はあるのだろうか? 例えばそれが、明らかに善くないこと、だとしても、聞きたくなければ聞かないという手段もあるだろう側が、それをやめるべきだと言う、その理由はなんだろう?
友人は、それを止めない、ということが悪口を肯定することになってしまうという、と言う。でもそうだろうか?
私は、その彼女の悪口がどんなものだか知らないので、周囲がどのように不快に感じているのかもわからないのだけど、自分が不快だから止めてくれ、と言うことはできても、「言えることは言っていいでしょ」と言われたら、そうだねとしか言えないなぁとおもう。そして「そうだね」と言ったからって、私がそれを選択するわけではないから、肯定することになる、というのはやっぱり違うんじゃないかなぁ。あえていうなら肯定も否定もしてない。
でも、ここで私は「自分でそれを選択したなら」というような条件を考えているけども、それはなんで私にとって「善い」ってことになってるんだろ?